■節子への挽歌1528:「マドレーヌの回想」
一昨日、コタツでの思い出があまりないと書きました。
コタツに限ったわけではないのですが、節子との思い出はたくさんあるはずなのに、実はあまり思い出せません。
なかにはほぼ完全に欠落しているものもあります。
不思議です。
しかし、あるきっかけで、その忘れてしまっていた記憶が一挙に吹き出してくることがあります。
20世紀を代表する作家と言われるマルセル・プルーストの「失われた時を求めて」に、「マドレーヌの回想」という有名なシーンがあります。
マドレーヌ入りの紅茶に触発されて、主人公が思い出を一気に頭の中に展開するところです。
あるちょっとしたことが、記憶の世界を表出させることはよくある話です。
「失われた時を求めて」は、回想を語りながらその中に自分の内面を発見していくというスタイルの小説ですが、この挽歌を書いていて、プルーストがなぜこれほどの長編を書き上げたかが少しわかる気がします。
自らの内面の深さは、底知れずなのです。
挽歌で何かを書き出すと、連鎖的にさまざまなことが浮かび上がってくることがあります。
もし挽歌を書き続けていなかったら、節子との思い出は、どんどん沈みこんで、ますます思い出せないほど遠くに行ってしまうかもしれません。
節子と一緒に、思い出までもが彼岸に行ってしまったら、私の世界はますますやせ衰えていきそうです。
「マドレーヌの回想」ではないですが、わが家には節子を思い出す「マドレーヌ」的なものが、まだ山のようにあります。
ただでさえ散らかっているわが家ですので、そうしたものを片付ければ、きっともう少し快適な空間になるのでしょうが、日常的に節子を思いだせるように、あまり片付けないようにしています。
「マドレーヌ」に囲まれている限り、節子の暮らしを忘れることはないでしょう。
「失われた時を求めて」は大長編です。
しかし分量においては、たぶん私の挽歌がそれを上回っていくはずです。
この挽歌があと何年続くかわかりませんが、プルーストを上回るとはうれしいことです。
まあ文字量だけの話ですが、もしかしたら記憶量にもつながらないわけでもないでしょう。
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