■節子への挽歌1530:心の霧が晴れたような気分
今日は私の記憶の話です。
先日、お風呂に入っていて、アレっと気づいたことがあります。
浴室はこんなにすっきりしていただろうか。
もっと湯気でぼんやりしていたのではなかったのか。
それが契機になって、この数年のことを思い出してみました。
ついしばらく前まで、私の周りにうっすらと「モヤのようなもの」がかかっていたような気がします。
特に入浴時のように、一人になった時です。
あるいは夜に駅から自宅まで一人で歩いて帰る時(昼間はそうでもないのですが)。
湯島のオフィスに一人でいる時。
なんとなく「ぼやー」っとした雰囲気に包まれていたような気がします。
そして、その中にいるとあまり現実感がなかったような記憶があります。
たぶん外部の物理的な世界の状況ではなく、私の脳の内部の認識のせいだろうと思います。
今から思い出すと、そうした時には実に奇妙な感覚になって、時間の感覚がなくなります。
道を歩いていると道沿いの樹木が語りかけてくるような気がしてきます。
湯島の場合、空に吸い込まれそうな気がしたこともあります。
お風呂の中では、まるで夢の中にいるような、そんなことがありました。
うまく説明できませんが、世界がよく見えなくなっていたことはまちがいありません。
浴槽で、心身があたたまってくると、時間を実感できない状況に入ってしまうのです。
そういえば、最近はそういうことがなくなったのです。
しばらく前までは、まちがいなく私の記憶や意識が、モヤや霧のようなものにかこまれていた気がします。
どうもうまく書けませんが、間違いありません。
夢まぼろしの世界を彷徨していたのかもしれません。
それがいつの間にか、その霧が、モヤが、晴れているのです。
たしかに視界がすっきりしだしています。
だからといって、何が変わったというわけではありません。
ただそれだけのことなのです。
これが本当のことなのかどうかも、正直なところ確信が持てません。
心の霧が晴れた、モヤが通り抜けた。
それにはどんな意味があるのでしょうか。
その答えはまだわかりません。
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