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2011/11/03

■節子への挽歌1523:人の一生は記憶そのもの

人の一生は記憶そのものであるといわれます。
つまり、私という存在は、私の心身の記憶の塊と言ってもいいでしょう。
そして、その記憶とは私が生きてきた全生涯の、私そのものに起こったこと、周辺との関係において起こったこと、さらには私のすべての感覚が感じたことのすべてなのです。
意識して記憶していること、つまり脳に記録されていることはほんの一部でしかないでしょう。
しかも、その記憶は変化しますし、編集されて新しい記憶を生み出しますし、時には創作が行われていきます。
このあたりのことは、最近の認知科学がかなり面白い知見を生み出しています。
多重人格の研究からも、考えさせられる知見が増えています。

人は記憶の塊と考えると愛する人との別れもまた強烈な記憶として私の一部になっていると考えられます。
そうなるととりわけ嘆くような話ではなくなってしまいそうです。
私の死もまた、記憶の塊が一つ消えただけの話です。
いや実は消えたわけではなく、それが社会の記憶につながっていると考えると、実は未来永劫、消えないことになります。
それが虚空蔵やアカシックレコード、あるいは一時期話題になったアガスティアの葉につながっていくわけです。
つまり記憶は消えることがないのですから、人は永遠に存在するのです。

とまた、わけのわからない挽歌になりましたが、私は「佐藤修」というファイルの記憶の塊ということになると、発想は広がります。
この挽歌に書かれている節子は、実は私の記憶が編集して生み出した存在かもしれません。
自らが自らを生み出す仕組みをオートポイエーシスといいます。
私が目指す組織原理です。
生命体は自らと同じ生命体を生み出す能力がありますが、記憶もまた記憶を生み出していく、オートポイエティックな存在なのです。

長いこと節子のことを挽歌で書いてきていると、新しい節子が生まれてきているような気がします。
節子のことを思っているうちに、これまで気づかなかった節子に気づくこともあります。
まあそんなことはありえないわけで、大体において記憶が生み出した創作なのでしょうが、それが実に自然に節子だと思えるのです。
そうして節子は私以上に成長していきます。
ですからますます愛すべき存在になっていくのです。

節子のことを書くことによって、実は私自身の記憶の塊が変化していることも事実です。
私もまた、節子にとっての愛すべき存在になってきているわけです。
記憶の塊としての私は、肉体が食事をして維持・成長しているように、こうして挽歌を書くことによって維持・成長しているのです。
ですから挽歌を書かない日は、なんだか空腹感ならぬ、空心感が出てくるのです。

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