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2011/11/15

■節子への挽歌1535:元気の炎

節子
昨日、セラピー活動をしている2人のセラピストが湯島に来ました。
一人はアートセラピスト、一人は臨床美術でクリニカルアートに取り組んでいる人です。
いま私が取り組んでいる認知症予防フォーラムの案内を知ってやってきてくれたのです。
節子がいた頃ほどではありませんが、今も毎週、新しい出会いがあります。
湯島は不思議な場で、実にさまざまな人を招きこんでくれるのです。

新しい世界にワクワクする感度を、最近は漸く少し取り戻してきています。
昨日の臨床美術の話は、節子だったらすぐ身を乗り出して、参加するでしょう。
しかし、その行動力は、私にはまだ戻ってきていません。
節子が聴いたらどんなに喜ぶだろうなと思いながら話を聴いていました。
それに、少し疲れがたまっているせいか、いつもより反応が悪いような気もしていました。

ところが、別れ際にクリニカルアートに取り組んでいる人が、元気をもらったといってくれたのです。
最近、自分ながらに元気が弱まっているのを感じていましたので、意外な言葉でした。
そして今日、アートセラピストの人からメールが来ました。

佐藤さんとお話ししているととても明るい気持ちになれ、パワーをいっぱいいただいたような感じがします。
我々もそうでありたいと思っています。
そして続いて臨床美術の人からも届きました。
何よりも、佐藤さんから発するエネルギーが、次に進む意欲につながり、とても活力になりました。
最近、どうも元気が出ないと思っていました。
しかしどうやら他者にはパワーを発しているようです。

周りの人を明るく元気にすること。
これは私が望んでいることです。
しかしその本人の、つまり自分の元気が枯れていては他者に元気を与えられないと思っていました。
それが2人から同じようなことを言われたのは意外でした。
そういえば、昨日、もう一人学生がやってきました。
私から元気を吸収したいといって、かばん持ちでも何でもやるからと言ってきたのです。
私から見れば、私よりも数倍も元気で行動力のある若者です。

元気とは何だろう、と考えてしまいました。
そして、節子が話もできないほどに病状が進行していた時でさえ、私は節子から元気をもらっていたことを思い出しました。
元気は、個人の中にではなく、人と人との関係性の中から生まれているのかもしれません。
化学反応のように、元気を生み出す出会いと言うのがあるのかもしれません。
そして常に元気を他者に与え続ける関係もあるのです。

節子は最期の最期まで、私に元気を与え続けてくれました。
いや今もなお与えてくれています。
節子は、私から元気を奪ったとばかり思っていましたが、そうではなかったのです。
元気ではなく、決して明るくはない私が、時に周りに元気を与えることができる。
節子が私に遺していってくれた「元気の炎」が、いまもまだ私の心身で燃えているのかもしれません。
そのことに気づかされました。
しかし、にもかかわらず、私自身は元気を実感できず、ただただ悲しいばかりです。
他者への元気な炎ではなく、私自身を元気にする炎を、節子に贈ってほしいです。
それには、節子に会うしかないのでしょうか。
彼岸に行くまで、お預けなのでしょうか。
実に、罪つくりな話です。

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