■節子への挽歌1521:「心が連続しているならば、生もまた連続している」
節子
昨日紹介した「チベット死者の書」には、ダライ・ラマのインタビューが登場します。
そこで語られている言葉は、とても共感できるものです。
一部は時評編でも紹介させてもらいましたが、ここでは挽歌編らしく、輪廻転生と生の連続性に関連して語られていることを少し引用させてもらいます。
ちょっと長いです。
「経験から私たちは心が常に変化していることを知っています。心は肉体環境が変化した故に変わることもあれば、それにはかかわりなく変化することもあります。心は一瞬一瞬変化してゆく現象です。」ここで、「微細な心」と言われているのは、私たち一人ひとりの心身の奥深くに普段は無意識に存在する心、のようです。
「心も因(主要因)と縁(間接因)を持っているに違いありません。粗いレベルの心の間接因は脳であり、究極の主要因は直前の心、より微細な心です。直前の心なくしては、現在の心が生み出されることは難しいと納得できるはずです。」
「まず原因から結果が生まれ、その結果が原因となり、それがまた結果となってゆく、つまり因果の法則(縁起論)ゆえに意識は持続的であり、経験や印象を次々に集積し、どこまでも流れてゆく。この心の連続体を想定するのが仏教の基本的説明です」。
「心が連続しているならば、それにともなって存在もしくは生もまた連続しています。」
「このように肉体は刻々変化しており、新たな生が始まるとともに、新たな肉体が生じます。これが生まれ変わりの理論なのです」。
連続体としての生、「大きないのち」に根ざしているとともに、「大きないのち」そのものといえるかもしれません。
それは、脳が作動しなくなった時に表に出てきます。
「死の過程の最柊段階に現われる光明である」と、死者の書は語っています。
バルドの生は、この「微細な心」を通して「大きないのち」に支えられているのです。
ダライ・ラマの言葉で、私がハッとしたのは、
「心が連続しているならば、それにともなって存在もしくは生もまた連続しています」
というところです。
心がつながっていれば、存在もつながっている。
頭では理解していたことですが、この言葉の奥に、なにかとても深い意味が含意されているような気がしてきました。
節子の身体から魂が、あるいは「微細な心」が抜けていく瞬間を、私は無意識に覚えています。
その時には、いささか気が動転していて意識できなかったのですが、後で気づいたのです。
「微細な心」を通じてつながっている節子に、いつかまた会えると思うと元気が出ますが、心のつながりが生のつながりであるのであれば、いまの私の生を、もっともっと大切にしなければいけません。
そのことに気づいて、ハッとさせられたのです。
生き方を変えねばいけません。
節子のためにも。
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