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2011/11/27

■節子への挽歌1547:「愛しいもの」

節子
Sさんがまた小池龍之介さんの記事を送ってきてくれました。
小池さんは、いま話題の若い僧侶です。
Sさんは、私が小池さんにはピンと来ていないのを承知で送ってきてくれるのですが、やはりまたピンとこないのです。

たとえば、小池さんの「超訳ブッダの言葉」にこんな一節があります。

ブッダの言葉
私はかつて、「目分」よりも
愛しいものを探して
世界中を
求め回ったけれども、
「自分」より愛しいものは
どこにも見つからなかった。
それは他者にとっても同じこと。

ブッダは本当にこう思ったのでしょうか。
私には疑問です。
私がそう思うのは、「自分」と「他者」がつながっているという発想が、そこに感じられないからです。
「自分」がいて「他者」がいる。
いまの私には悟った人の発想とは思えません。
失礼ながら、小池さんはまだ豊かな愛を経験していないのではないかとさえ思えます。
若い僧侶に難癖をつけているわけではないのですが、こうした人の人気が高いということに、大きな危惧を感じます。

私も若い頃、自分より「愛しい」ものを探しました。
そして見つけたのが「節子」です。
いや正確に言えば、「節子」というよりも「愛」といっていいでしょう。
人を愛するということは、自分への「愛」を克服することです。
節子は、その「象徴」だったのです。
人を愛することを一度でも知ったら、すべてのものへの愛しさが生まれます。
自分のための愛が、すべての人のための愛になるのです。
この感覚は、愛を体験した人でないとわからないかもしれません。

自分という、閉じた小さな世界から飛び立つこと。
私にとっての「愛」は、そういうことです。
自分への愛が、自分を含めたすべてのものへの愛に変わるための「愛」。
それに気づかせてくれたのが、節子でした。
そして、愛が解放されれば、たくさんの「愛」が自分に降り注ぐのが実感できるようになります。
愛に包まれているといっていいでしょう。

節子がいなくなって4年たって、ようやくそれが納得できてきました。
自分のこだわっていては、本当に「愛しいもの」は見つかりません。

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