■節子への挽歌1542:迷惑を掛け合う伴侶がいない寂しさ
節子
また訃報が届く季節になりました。
このところずっと付き合いが途切れていた、年上の友人が亡くなったと奥様からはがきが届きました。
不謹慎ですが、伴侶より先に逝けたことを少しうらやましく思いました。
さだまさしの「関白宣言」ではないですが、伴侶に先立たれることの辛さは体験しないとわからないでしょう。
来世では、その辛さを節子に体験させるために、今度は私が先に逝きたいものです。
しかし、先立つ立場であれば、どう思うでしょうか。
愛する伴侶や家族を遺して、旅立つ辛さは、遺された者の辛さ以上のものかもしれません。
いや両者を比べること自体が、そもそも意味のないことでしょう。
いずれもが、同じように、悲しくて辛いのです。
できるならば、一緒がいいですね。
昨日、ある集まりで、同世代の人がしみじみと語りました。
この歳になると子どもたちに大きな迷惑を掛けることのないように生きることが大切だと思う、と。
たしかにそうかもしれません。
しかしもし節子がいたら私はそんな事は一切考えないでしょう。
夫婦とは、お互いに支え合う関係であると同時に、迷惑を掛け合う関係でもあるからです。
「支え合う」と「迷惑を掛け合う」とは、もしかしたら同じことかもしれません。
私には、迷惑を掛けても大丈夫の伴侶は、もういません。
迷惑を掛けてくる伴侶もいない。
私には、それこそが寂しいです。
それにしても、節子には山のような迷惑を掛けてきました。
節子はそれをすねて、先に逝ってしまったのかもしれません。
そうでなければいいのですが。
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