■節子への挽歌1581:非日常的日常
節子
今年最後の挽歌です。
節子のいない年越しも、これで5回目になります。
よくまあ元気で生き長らえていると不思議な気持ちになることもあります。
節子がいなくなったら、私も生きる気力を失い、たぶん後を追うように逝くかもしれないと思っていましたから。
にもかかわらず、もう5回目の年越しです。
節子のいない生活にも順応できているように見えるでしょう。
外部から見たら、私もいまでは元気になり、普通の生活を過ごしているように見えるはずです。
しかし、40年も一緒に暮らしてきた妻のいない暮らしは、決して「日常」にはなりません。
順応はできたかもしれませんが、決して慣れることはありません。
朝、位牌に向かって、般若心経を唱え、節子に話しかけるのは日常化しましたが、しかしなぜ節子はいないのだろうかという疑問は決して消えることはありません。
そして節子のことを思った途端に、胸が痛み、涙が出ます。
これは未来永劫消えないことでしょう。
それもまた、日常化してしまったのです。
まさに、日常にして日常に非ず、非日常にして非日常に非ず、なのです。
それは、なかなか説明ができないほどに、不思議な世界でもあります。
そうした「非日常的日常」のなかでは、人は自然と「哲学的」に、あるいは「思索的」になります。
ホームページに書いたことですが、私の世界はこの数年で大きく変わってしまいました。
私自身はたぶんほとんど変わっていないと思うのですが、私とは「私とその環境」と考えれば、私は大きく変わってしまっているわけです。
自分で言うのもおかしいですが、その変わりようは、自分でも驚くほどです。
節子がいた頃の私とは、全く別人の私がいるわけです。
「哲学的」あるいは「思索的」というわりには、いまも相変わらず、感情的、情緒的、刹那的に行動しています。
しかし、2つの世界を生きていると、さまざまな思いがめぐってきます。
時間感覚も大きく変わってきますし、第一、見えないものが見えるようになるのです。
もちろん見えるものも見えなくなってしまうこともあるわけですが。
そして、論理もまた跳んでしまうのです。
たとえば、節子の目線を感ずることがあります。
そこにいない現実とそこに感ずる現実をどう辻褄をあわせればいいでしょうか。
そいて、哲学的、思索的になっていくわけです。
今日は節子がいなくなってから、1581日目です。
よくぞここまで挫けずに来られたものです。
娘たちのおかげだと思っていますが、それが良かったかどうかはまた全く違う話です。
これもまた「非日常的日常」、あるいは「非常識的常識」なのです。
節子、そろそろまた新しい年が始まります。
おまえがいないので、新年を迎える感激はありませんが。
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