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2011/12/25

■節子への挽歌1575:嘆き悲しむことで、穏やかな気持ちになれる

節子
鈴木さんに勧められて、小池龍之介さんの「考えない練習」を読みました。
面白かったのですが、やはり心に響きません。
体験の違いかもしれないと最近思えるようになりました。

たとえばこんな文章があります。
ちょっと長いですが、引用させてもらいます。

親族が亡くなった時に、いつまでも嘆き悲しんでいるのは、亡くなった方を思うゆえと思われるかもしれません。けれど、いつまでも泣き続けることは、相手に起因する苦痛をいつまでも感じ続けているということであって、その「負」の波動をずっと発散し続けているわけですから、自分にとっても良くありません。
また、相手のことを思っているつもりで実際は相手ゆえに自分がネガティブになっているわけですから、亡くなった方のためにもなっていません。
 (中略)
亡くなってしまった方の供養に際して大切なことは、嘆くことではなく、慈しみの心を持つことです。
相手のことを本当に思うなら、慈悲の瞑想で「亡くなった方が穏やかであるように」と念じることのほうが有益なのです。
亡くなった方が安らかでありますように、とひたすら念じ続けていると、穏やかな気持ちになってきます。ところが悲しいという感情に心が侵されていると、心が怒っているので苦が生じ、身体も蝕まれていきます。
反論があるわけではありません。
むしろ理解はできるのです。
しかし、どうもぴんときません。
少なくとも私の感覚とは全く違うのです。

どこが違うのか。
「泣き続ける」とか「嘆き悲しむ」というのは、決してネガティブな感じではないのです。
そして、それらの行為と「穏やかな気持ち」とは矛盾もしません。
つまり、「泣き続ける」「嘆き悲しむ」「穏やかな気持ち」、そして「慈しみの心を持つ」ことは、少なくとも私の場合は重なっています。
泣き続け、嘆き悲しむことで、慈しみの心も育まれ、穏やかな気持ちになることもあるのです。
これは愛するものをなくしたからこそ、確信できることでもあります。

「悲しいという感情に心が侵されていると、心が怒っているので苦が生じ、身体も蝕まれていきます」というのも、以前ならそうだろうなと思ったことでしょう。
ただいまは違います。
「悲しいという感情に心が侵されている」のではなく、「悲しいという感情に心が満たされている」と捉えると全く別の受け止め方ができます。
他者の悲しみも素直に受け容れられて、心身が素直に反応するようになるのです。

本当に人を愛し、その人との別れを体験すれば、たぶんわかることでしょう。
たぶん小池さんは、自分ではその体験をしていないような気がします。
もし体験していたら、こんな「乾いた」物言いはしないでしょう。
しかし、だから小池さんが間違っているとはまったく思いません。
ただ今の私にはぴんとこないだけで、時と状況が違えばきっとぴんと来ることでしょう。

悲しみや愛を、軽々に一般論で語るべきではないのではないかと、私は思います。
それは一人ひとりが直接出会って、乗り越えていくべきことのように思うのです。
そして、一人ひとり、それぞれに違った表情を持っているのです。

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コメント

佐藤様

小池龍之介さんの文章についてお感じになったこと、私も同感です。私は書籍は読んでいませんので、佐藤さんが引用された範囲での感想ですが。
泣き続けることがネガティブとは思いません。慈しみの思いも同時に湧き出ます。一体です。
世間の方は一般的に(かけがえのない人を亡くした経験のない方と表現するべきでしょうか)は、いつまでも嘆き悲しんでいると亡くなった人が悲しむとか
成仏できないよと言ったりします。
正直に言うとそういう思いにかられることもあります。でも同時に感謝と慈しみの涙もあふれているのです。
その両方の感情を受け入れながら、少しずつゆっくりではありますが自分というものが見えていくのではないでしょうか。
佐藤様の感想にほっとし、心強く思います。

投稿: patti | 2011/12/26 22:55

pattiさん
ありがとうございます。
私もホッとしました。私だけの重いかもしれないという気がどこかにありましたので。
友人から小池さんとスマナサーラさんを勧められたのですが、どうも馴染めません。
馴染めないどころか、反発さえ感じます。
まだまだ煩悩から抜け出ていないのかと嘆かわしい気もしますが、同時に、煩悩から抜け出ているのは自分ではないかと思う気もあります。愛する人との別れを体感した人の言葉でないと最近は素直になれないのかもしれませんが、もしかしたら、妻を見送ったおかげで、私は「愛する」ということが少しわかったような気もします。
まあ寂しさはそう簡単には癒されませんが。

投稿: 佐藤修 | 2011/12/27 11:46

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