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2011/12/28

■節子への挽歌1578:「よい一日」

先日、小池龍之介さんの本を数冊読んだのですが、その勢いでスマナサーラさんの「悩みと縁のない生き方」という「日々是好日」経の本を読みました。
いずれもどうも馴染めない人なのですが、私の読み違えかもしれないと思い、読むことにしたのです。
節子もよく知っている通り、私は思い込みが強いですので。

書き出しはこうでした。 

「『今日はよい一日でした』と言えるように、毎日、過ごすことはできますか?」まず、私はネなさんに、そうお尋ねしたいと思います。
これは自分が「仏教の勧める生き方」をしているか杏かを知ることのできる、基本均な質問(自問)です。
まさに節子の生き方でした。
もしかしたら波長が合うかもしれないと思い、一気に読みました。
しかしやはり違っていました。
スマナサーラさんは、過去も未来もない、あるのはただ「今」だけだというのです。
過去や未来への煩悩でいまこの瞬間が見えなくなっているというわけです。
たしかにそうかもしれません。
小池さんの著書と同じく、頭では理解できますが、やはりどこかに違和感が残ります。
あえていえば、大切なことを忘れているような気がするのです。
いまこの瞬間を通して、実は過去も未来もつながっているのだということを。

節子は毎晩、寝る前にお祈りをしながら、今日もよい一日だったと感謝していました。
そして、明日もまたよい一日になりますようにと祈っていました。
いつの間にか、私もまたそう思うようになりました。
節子は、瞬間瞬間を大事に生きるようになりました。
しかし、だからと言って、過去や未来への思いを捨てたわけではありません。
煩悩と言ってしまえばそれまでですが、節子にとって、過去もまた現在、未来もまた現在だったのです。
真剣に祈るならば、時間はほとんど意識しなくなります。
そして、過去も未来も含めて、すべてをいい瞬間にしたいと、節子は思っていたような気がします。
今がよければ、未来もよくなるし、過去がよければ今もいいのです。
人やいのちのつながりと同じように、時のつながりに気づけば、今も過去も未来も、同じものだと気づくでしょう。

節子は、間違いなく、自分がいなくなった後の私を見ていました。
そしてそれも含めて、毎日をよい一日にしようとしていたのです。
一方、私は過去も未来も見えなくなり、いま目の前で闘病している節子しか見えなくなっていたように思います。
だからたぶん「大きな過ち」を犯したのです。
「いま」という時を理解できていなかったのです。
節子ほどには、真剣に生きていなかったのです。
節子と私のこの時間意識の違いを、節子は多分感じていたでしょう。
なんとなくそう思います。
時を越えてしまえば、もしかしたらそんな違いは瑣末なことかもしれません。
節子は、ある時から、すべてをゆるしていたのです。
ずっと近くにいて、そう確信しています。
だから節子は一言たりとも繰言は言いませんでした。

「よい一日」
その深い意味に、まだ私は届いていませんが、節子のおかげで少しだけ垣間見えるような気がしています。

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