■節子への挽歌1565:地と図
節子
湯島には実にさまざまな人がやってきます。
そうした人たちに会っている時には、たぶん節子がいた頃の私とそう違わないかもしれません。
しかし、お客様が帰って、次の来客までの間、時間があくとなにやら無性に疲れが出てきます。
節子がいた頃は、お茶など出してもらって、節子といろんな話ができましたが、一人だとそういうわけにもいきません。
来客に出した珈琲メーカーに水を足して、もう1杯、珈琲を飲むことくらいしかできないのです。
私は、「沈黙」や「静寂」があまり得手ではありません。
特に今のように外が暗くなってくるとなにやら考え込んでしまいがちです。
節子がいた頃には、なかった時間です。
地と図というのがあります。
人の生活の「地」とはどういう状況でしょうか。
たぶん一人でいることでしょう。
そして誰かと一緒の時が「図」といってもいいでしょう。
私の場合、以前は節子がいる時が「地」だったのではないかと、ふと思いました。
もちろん独りになることはありましたが、むしろ節子と一緒にいた時間が、私にとっての「地」、つまり日常だったように思います。
独りの時は、むしろ「図」だったのかもしれません。
「地」が変わると、そこに描かれる「図」も変わってきます。
それはなんとなく感じていたのですが、最近、同じような「図」にいても、以前とは違うような気がしていました。
たぶんそれは、「地」が変わってしまっていたからです。
「地」が変わる。
それはもしかしたら、人生が変わることかもしれません。
だとしたら、以前と同じように来客と会っていても、たぶん雰囲気は全く違うのだろうなと思います。
節子がいた時といなくなってからと、変わったかどうか、こんど昔からの友人知人に訊いてみようと思います。
間違いなく変わったのは、訪問客が帰った後の時間です。
呆けたように、疲れてぼんやりしています。
なぜこんなに疲れるのか、理由がわからないのですが。
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