■節子への挽歌1568:喜怒哀楽の二面性
江戸時代の儒学者 貝原益軒は、大声で笑ったり泣いたり、あるいは怒ったりすると、気が漏れてしまい、心身にとって良くないことだと戒めています。
気は、自身の内にしっかりと固めておかなければならないというわけです。
「男は黙ってサッポロビール」ではないですが、軽口の男は信頼できない風潮が、少し前まではあったように思います。
その視点からいえば、この挽歌を書いている私などは、男の風下にも置けない存在かもしれません。
しかし江戸時代も300年という長さの中で、世相はいろいろと変わりました。
文化・文政期になると、「気をいふ物、よく廻れば形すくやかになる、滞ほる時は病生ず」と書いている国学者もいます。
喜怒哀楽こそが心に鬱屈した気を解放し、元気になるというわけです。
喜怒哀楽は、薬にもなれば毒にもなるわけですが、私はもちろん後者の論に共感しています。
だからこそ、節子を見送っても、なお元気でいられるわけです。
節子と私は、お互いの喜怒哀楽を素直にぶつけ合っていました。
だから夫婦喧嘩も絶えませんでしたし、心底から愛し合う夫婦でもあったのです。
喜怒哀楽を共有することの効用は計り知れないほどに大きいように思います。
挽歌を書くことで、私は心身のなかにある喜怒哀楽を解き放っているのです。
ですから、哀しさに沈むこともありますが、鬱積した気が病に転ずることはありません。
挽歌の文面よりも、心身は軽いのです。
この挽歌を読んで下さっている方もいます。
時々、コメントなどももらうのですが、少し気になることもあります。
心のうちに溜め込んでいる喜怒哀楽に、この挽歌が悪さをしないか。
それがいつも気になっています。
喜怒哀楽のブラックホールにはまってしまうと、人は身軽にはなれません。
この挽歌が、読者の喜怒哀楽を外に向けて解放する役割を少しでも果たせたら、うれしいのですが。
喜怒哀楽を心身で表現するのはいいとして、こんなかたちで文字に書いてしまうことがいいのかどうか、書いていて時々迷うこともあるのです。
節子だったら、たぶんですが、あんまり賛成しないでしょうし。
節子は、もうそろそろやめたら、と言っているかもしれません。
病にならないために、私はまだ書き続けますが。
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