■節子への挽歌1555:「家族のためにがんばってくれています」
先日、挽歌で書いたNさんの娘さんから電話がありました。
先日、記憶を失いがちなNさんを元気にしようと娘につくってもらったスペインタイルの「祈りの天使」を送りました。
娘たちもみんなNさんともお会いしているので、それぞれにエールの言葉も書き添えておきました。
そのお礼の電話だったのですが、娘さんからお聞きして、思っていた以上にNさんの状況は大変なことがわかりました。
娘さんが言いました。
死ぬほどの怪我だったのですが、家族のためにがんばっていてくれるのです、と。
よくわかります。
人は、自らのために生きようとするのではないのです。
愛する人のために、愛する家族のために、みんなのために、がんばっているのです。
体験した人ならきっとわかるでしょうが、人は自らのために生きようとするのではないのです。
そして、命が尽きても、人は、愛する人のために、愛する家族のために、みんなのために生きつづけているのです。
父も看病で大変なので、私の家に来てもらったのですが、やはり父のいる自分の家がいいというので、今はまた実家に戻りました。
私もできるだけ実家に行くようにしています、と娘さんは言いました。
今回、ご主人からではなく、娘さんからの電話だったので、少し気になったのですが、ご主人が倒れなければいいがとちょっと思いました。
伴侶の心身は親子よりもつながっていると、私は思っています。
前にも書きましたが、愛する伴侶の死は自らの死とほぼ同じです。
同じように、愛する伴侶の健康状況もまた心身に深くつながっています。
愛するわが子への母親の思いと同じかもしれません。
愛するということは、そういうことです。
しかし、看護は、それはそれは大変です。
私も、もし一人だったらとても対応できなかったでしょう。
幸いに娘たちが一緒になって看病してくれました。
肝心のことを書き残しました。
娘さんはNさんにタイルを見せながら節子のことを話してくれたそうです。
記憶をなくしていたNさんが、そのうちに「亡くなったのよね」とつぶやいたそうです。
節子がいたら、とんでいっただろうにと、また思いました。
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