■節子への挽歌1558:夫婦の力
日本ドナー家族クラブの間澤さんから年賀欠礼のハガキが届きました。
ご主人が亡くなられたと書かれていました。
71歳、私とほぼ同年です。
間澤さんと知り合ったのは10年以上前にNPOへの資金助成プログラムのコムケア活動を始めた時です。
資金助成先を決める公開選考会に、間澤さんは参加してくれました。
その会で私はコムケア活動の趣旨などを話させてもらいましたが、そこで「楽しい福祉、明るい福祉」を考えていきたいと言いました。
休憩時間に間澤さんは私のところにやってきました。
少し怒っている感じでした。
日本ドナー家族クラブを立ち上げたが、ドナーの家族として、「楽しい福祉」などできませんと言われました。
間澤さんはアメリカに留学していた娘さんを交通事故で亡くされ、彼女の意志を受けて、ドナー提供したのです。
しかしドナー家族は世間の冷たい目にさらされる当時の風潮を実感し、それを変えていくために同じ立場の人たちに声をかけて、ご夫妻で日本ドナー家族クラブを立ち上げたのです。
間澤さんは、しかしその後もコムケアの集まりに参加してくれるようになりました。
そしてある日、5月17日を「生命・きずなの日」と決めて、自分たちだけではなく開かれた集まりをやりたいと言ってきました。
いつの間にか、間澤さんもコムケアの仲間になってくれ、私の意図に共感してくれるようになっていたのです。
私も一度、参加して。お話させてもらったこともあります。
活動は順調に広がり、間澤ご夫妻の心も癒えつつあるだろうと思っていましたが、節子の症状が悪化してからは接点がなくなっていました。
しかし間澤さんがコムケアで知り合った人たちと一緒に活動していることは耳に入ってきていました。
一度また声をかけてみようかと思っていたところでした。
間澤さんの手紙に、「日本ドナー家族クラブは収束させました。ありがとうございました。」と書かれていました。
そこに間澤ご夫妻のお気持ちを強く感じました。
やはり間澤さんも夫婦一緒だったからこそ、あれだけの活動を起こせたのだと改めて思いました。
このように、訃報と共に活動が終わるという連絡が入ることが多くなりました。
そのたびに、私の世界も少しずつ収束に向かっているのだと感じます。
この時期は寒いだけでなく、寂しい時期でもあります。
間澤さんのご冥福をお祈りします。
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コメント
佐藤様
pattiです。
コメントしたい内容(風情のことなど)がいつも頭の中にいっぱいになりながら、
なかなか実現できないまま今日になりました。
彼が旅立ってから5ヶ月近く、初めて一人で迎えるこの季節、そして彼の不在を実感する生活を重ねてきことで、
不安定な気持ちに陥ってしまったようです。今になって声を上げて泣いてしまうことが多くなりました。
「やっぱり、あなたがいないこの世はさみしい!」と。
でも、この状態が私の日常になったのだとやっと受け入れました。
大震災で住まいまで失くしてしまった方々を思えば、私はまだまだ恵まれています。
彼の思い出の品々に囲まれて一人で誰はばかることなく大泣きすることができるのですから。
もちろんこの間も仕事に行き、書物を読み、休みの日は出来るだけ映画や展覧会、講座等を見聞きしていますが、
今までは彼との生活が中心で、独身時代から親しんでいたそれらのことは少し二次的なものになっていました。
両方を享受していた私はなんと贅沢な日々を送っていたのだろうと改めて思います。
アマチュアバンド活動をしていた彼の映像を見ることも、二人が共通して愛した曲を聴くこともまだ出来ません。
それこそ涙に暮れて収拾がつかなくなってしまうでしょう。
今は佐藤さんのブログや書物から届く、心に響く言葉に支えられて毎日生きているような気がします。
今日は録画しておいたNHKアーカイブスの五木寛之の仏教への旅を見ていました。
その中のアメリカの禅寺の住職の言葉ー
仏教をシンプルに伝えるとしたらとの質問に答えたのは
「I'm sorry 」「Thank you」「I love you」であると。
なんと、私が泣いても泣いていなくても毎日毎日彼に伝えていることではないか!と絶句しました。
この明瞭な言葉にあらゆる思いが内包されています。ああ、そうなのだとまた泣きました。
映画はGeorge Harrison の「Living in the Material World」を見ました。彼も癌で逝きました。
彼の哀切のある歌や「All Things Must Pass」というアルバムのタイトルも
ずっと心の中にありました。長い映画でしたがどの場面も逃したくないほど惹きつけられました。
そしてエンドロールで流れた歌に打ちのめされました。
歌詞を確認するためにももう一度見たいと思っているのですが、このような内容です。
「長い長い日々を過ごしてきた。でも、今僕はとても幸せだ。今君が見える。
今までなんと無駄な涙を流してきたことだろう。でも今僕は幸せだ」
この曲を聴きながら私もいつか今の涙が無駄だと思えるほど「その時」は
幸せに感じられるに違いないと思ったのです。
もちろん今流している涙は彼への思いの証しです。
その日々を重ねてついには彼の魂に出会えるのだよと
深いメッセージをGeorgeからもらったと思いました。
でも、数日してふと考えたのです。
Georgeは癌に侵されていた。これは彼が逝った後の自分が妻に伝えたいメッセージではないかと。
彼もあちらの世界でずっとずっと妻を待ち続けているということかと。
ならば、もしかしたら夫もこんな私でも同じように待っていてくれているのかもしれない、そうであったらどんなにうれしいだろう。
緩和ケアの先生に
「soul mateって知っていますか? お二人はきっとそういう関係なんですよ」と優しく声をかけていただいたことも思い出しました。
私が後悔の場面ばかりに囚われていたときです。
すみません。長くなってしまいました。
出来るだけ長く一生を共に生きようと決めていた伴侶を失うことがこんなに苦しく、またそれ故に人間の生と死、
そして強く深い愛を感じることになるということ、佐藤さんのブログを通していつもいつも共に考えています。
支えになっています。
寒い季節になってきました。
佐藤様、どうぞご自愛ください。
patti
投稿: patti | 2011/12/10 23:07
pattiさん
ありがとうございます。
涙を流せるということの幸せに気づいたのは、私は1年以上経ってからです。
4年経っても、妻の不在が日常になってもさみしさが消えないのは、たぶんいまのpattiさんと同じです。
寒い冬は、涙も寂しさも深まります。
ジョージ・ハリソンのLiving in the Material Worldは、まだ観る勇気はありませんが、音楽はぜひ聴いてみようと思います。
いつもありがとうございます。
深く感謝しています。
気持ちを分かち合える人がいると思うだけで、心が安らぎます。
投稿: 佐藤修 | 2011/12/11 07:41