■節子への挽歌1582:世界を創出する能力
節子
厚い雲のために初日の出も拝めない年の始まりでした。
毎年、初日の出を見ることでわが家の1年は始まりました。
節子は闘病時でさえ、元旦の朝は屋上で初日の出を拝んだものです。
初日の出を見られなかったのは、ここに転居してから初めてのことです。
今年はちょっと残念な年明けでした。
わが家の年明けの行事は、家族みんなでの初詣と墓参りです。
これは節子がいる時からの文化で、1回たりとも欠かしたことはありません。
闘病時も、節子も一緒に歩いて近くの子の神神社に初詣に行きました。
神社から富士山がよく見えるのですが、今日は残念ながら富士山も見えませんでした。
初日の出も富士山も、そして節子もいない年の始まりでした。
いつもとは違う「ないないづくし」です。
しかし、節子の話題は何回も出ました。
節子は間違いなく、まだ私たちの世界に生きています。
だからこそ、私たち家族は心穏やかに生き続けていられるのかもしれません。
私たちの目の機能は、デジカメに例えると100万画素程度しかないのだそうです。
100万画素のデジカメの写真はかなり粗い映像です。
にもかかわらず、私たちが見ている世界は、スムーズです。
それは脳によって、画素の粗さが修正されるからなのだそうです。
しかも人間の目には、「盲点」というのがあって、全く見えないところ(暗点)もあるのだそうです。
それも脳が補ってくれているのだそうです。
つまり私たちが見ているのは、現実ではなく、100万画素の材料で創作された映像なのです。
創作あるいは編集を可能にするものはなんでしょうか。
多分過去の記憶でしょう。
今朝、いつもならば初日が出てくる場所の写真を撮りましたが、そこに日の出をイメージすることはできますし、昨年見た方向に富士山を想像することもできます。
同じように、節子は見えませんが、たとえば神社の焚き火に手をかざして暖を撮っている節子をイメージすることもできます。
もし私の創作能力が高ければ、節子の存在する世界を創出することもできるかもしれません。
節子との日々が戻ってくるわけです。
しかし、もしそうなったとしたら、人は私のことを気がふれたと思うでしょう。
他の人には見えない節子を感ずることができるわけですから。
しかし、人間の脳は、それくらいのことはできるはずです。
つまり私たちが実感している世界と現実の世界は、それほど固定的でもなければ、確実なものでもないわけです。
脳が勝手に現実を材料にして、私たちが生きやすい世界を生み出してくれているのです。
最近、脳に関する本を少しだけ読みかじったのですが、そのおかげでそう思えるようになりました。
問題は、自らの創作能力、編集能力を高めることですが、そのためには常識の呪縛を脱ぎ捨てなければいけません。
自らに素直になっていくと、それも可能な気がします。
それはともかく、昨夜はあまり寝ていないので、そして今日も出かけていて疲れたので、そろそろ寝ようと思います。
夢の中であれば、私でも少しは創作能力を発揮できるでしょう。
節子に会えるといいのですが。
ついでに、富士山と初日の出も一緒だともっとうれしいです。
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