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2012/01/06

■節子への挽歌1587:モノに囲まれた無一物の世界

節子
届いた年賀状を読んでいたら、こんな文章が目にとまりました。
「モノがなくても、どうにかなるんだな」という感覚が一度わかってしまうと、生きることがグッと楽になります。
前にも話題にした「ときめき片付け法」の近藤さんの言葉だそうです。

この種の言葉に出会うと、私はいつも「節子」という言葉で置き換える習慣ができてしまいました。
つまりこうです。
「節子がいなくても、どうにかなるんだな」
たしかに、これはこれまで何回か体験してきたことです。
どうにかなるのにもかかわらずに、どうにもならないと思い込んでしまっている。
これが「執着」ということでしょうか。
執着がある限り、本来無一物の境地には届きようがありません。

モノが少なければ少ないほど、それをどうすればいいかなどと心惑わされることも少なくなり、生きることが楽になるかもしれません。
しかし、残念ながら、必ずしもそうとばかりもいえません。
「衣食足って礼節を知る」という言葉があるように、モノがなければないで、またそれを欲する惑いが生まれます。
欲しいものがあるほうが、もしかしたら、生きるのが楽になるかもしれません。
モノを捨てることで心安らかになる人もいれば、モノに囲まれることで心安らぐ人もいるのです。
それは、「人」や「愛」に関してもいえるのかもしれません。

節子を見送った後、ある人から「自由になりましたね」と言われました。
私にはショックでしたが、そういう人もいるのです。
愛する人を失って、「もう二度と人を愛したくない」と言う人もいます。
モノと同じく、人も愛も、煩わしいものでもあるのです。
しかし、少なくとも、私は今もって、人も愛も捨てる気はありません。
だからモノも捨てられないのかもしれません。
本来無一物は、まだまだ遠い世界です。

節子がいたほうがいいのか、いないほうがいいのか、などということは、私の場合は成り立たない問題ですが、人によっては成り立つこともあるわけです。
だから「離婚」が、これほど多いのです。
私の周辺でも、離婚はとても多くて、とても悲しいです。
私には、なかなか理解し難いことです。
しかし、それを理解しなければ、本来無一物の世界には入れないのかもしれません。

本来無一物ということは、人や愛までも含んでいるのでしょうか。
間違いなく言えることは、節子がいない今の人生は、私にとって決して楽でもありませんし、心もやすまりません。
私の執着と煩悩のためなのか。
でも、だからといって、本来無一物が私と無縁の世界とは思えません。
むしろとても近い気がするのです。
節子のいない世界は、私にとっては、無一物の世界に近いような気がします。
まだうまく説明できませんが、モノに囲まれながらも、私は本来無一物の世界に近づいている。そんな気がしていてなりません。
私にとって、モノも人も、そして愛も、どうも違ったものになってしまった。
真にもって、身勝手な解釈です。

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コメント

ご無沙汰しております。
佐藤様は覚えていらっしゃらないかと思いますが、昨年一度だけ湯島にお伺いした者です。

私は、人生にとって必要なものは「愛」しかないと思っています。
モノや人という物理的存在は「愛」があってはじめて意味を持つものと。

節子様と早くに出会えた佐藤様を、未だ独り者の私はいつも羨ましく思っています。

寒い日が続きます。
どうぞこれからもお体をお大事になさってください。

投稿: makimakiro | 2012/01/07 17:51

makimakiro さん
もちろん覚えています。
その時に話されたこともよく覚えています。
ご自分の言葉で、ご自分のことをしっかりと話されてましたから。
そういう人の事は記憶に残るものです。
実はその後、どうされているか気になっていました。
お元気そうでうれしいです。

いつか「お2人」で、ぜひまた湯島に遊びに来てください。
楽しみにしています。


投稿: 佐藤修 | 2012/01/07 22:19

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