■節子への挽歌1603:人生のピーク
節子
節子がいなくなってから、何が変わったのでしょうか。
お風呂に入りながら、ふとそんなことを考えました。
すべてが変わったとも言えるし、何も変わらないとも言える、そんな気がしました。
形の上で変わったことはたくさんあります。
たとえばお風呂も、節子がいる時は一緒に入りました。
入浴時は、私たちのそれぞれの1日の報告の場でもありましたから、ずっと話し合いながら入浴しました。
今はいつも私一人です。
しかし、節子との話はいまも続いています。
入浴時は、節子と話していることが多いのです。
時々、名前さえ口から出ます。
いささかみっともないかもしれませんが。
ですから変わったといえば変わったし、変わらないといえば変わっていないのです。
明らかに変わったのは何だろうと考えました。
答は、好奇心が落ちてしまったことだと気づきました。
自分の世界を広げることに興味を失ったような気がしてなりません。
もちろん今も誰かから新しい話を聞くと、心身が動きます。
そこまではあまり変わっていないのですが、そこからがまったく違います。
行動に結びつかないのです。行動が広がらないのです。
そのことに気づいたのです。
人の人生のピークはいつでしょうか。
その答がわかったような気がします。
それは最愛の伴侶と別れた時です。
最愛でない伴侶、あるいは伴侶ではない最愛の人ではありません。
最愛の伴侶です。
伴侶でなくただ愛する人であれば、いつか伴侶にめぐり合える時まで人生は上向きです。
最愛の伴侶でなければ、いつかその伴侶が最愛の人になるかもしれませんし、別の伴侶とのめぐり合わせがくるかもしれません。
いずれの場合も、まだ先に人生のピークがあるのです。
しかし、最愛の伴侶の場合は、もうピークはないのです。
ですから、後は静かに下り坂を下りるだけなのです。
お風呂に浸かりながら、そんなことを考えました。
なんだか寂しくてくらいと思われるかもしれませんが、そうではないのです。
その気づきは、私にはむしろ明るい気づきなのです。
なにしろ私は人生のピークを全うしたのですから。
そして、節子もまた人生のピークを全うしたのです。
今日はゆっくり眠れそうです。
そういえば、最近、節子の夢を見ません。
困ったものです。
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