■節子への挽歌1610:「大切な人を失うって、どういうこと?」
昨日のワークショップの午後のテーマの一つが、「大切な人を失うって、どういうこと?」でした。
私には、「失う」という言葉に違和感がありましたので、そのことを話させてもらいました。
失っていない、むしろこれまで以上に身近に感ずると話したのです。
共感してくれる人もいました。
私とほぼ同世代の女性が、「死別した人のところには後妻にいくな」と昔から言われていました、と話してくれました。
死別した人は、伴侶の良さをどんどん頭の中で増幅していき、忘れられないのだそうです。
離婚した人は、逆に相手の悪いところを増幅させるので後妻に行っても大丈夫だといわれていたそうです。
奇妙に説得力のある話です。
私が、今も妻はすぐ近くにいるような気がしますというと、夫を亡くした女性が、私もそうですと言いました。
弟さんを亡くされた女性が、それを聞いて、こんな話をしました。
弟は遠く離れたところに住んでいて、これまでも1年に1回会うかどうかだった。
だから死んだからといって、別に何かが変わったわけではない。
まだ生きていると思えば、なんでもない。
しかし、亡くなってから、弟の存在が強く意識され、心が乱れる、と。
彼女はまだかなり精神的に不安定のように感じました。
彼女にとっては、弟との死別が、弟との距離をなくし、関係性を意識させることになったのかもしれません。
「死」が「存在」を意識化したと言ってもいいでしょう。
夫を失った女性が、いる時には何にも感じなかったのにと、ポツンと言いました。
「失う」とは何でしょうか。
「別れ」とはなんなのか。
とてもたくさんの学びと気づきがありました。
その分、深く深く疲れました。
| 固定リンク
「妻への挽歌09」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1800:ささやかな日常の営みこそ輝いていた(2012.08.11)
- ■節子への挽歌1799:お人好し(2012.08.11)
- ■節子への挽歌1798:危うく熱中症?(2012.08.10)
- ■節子への挽歌1797:死んでいるのに、生きている(2012.08.10)
コメント