■節子への挽歌1600:「節子がいる私」と「節子のいない私」
寒いです。
我孫子はみぞれが時々降っています。
10年前に離婚された方、まだ結婚されていない方から、コメントが書き込まれました。
お2人からは、「節子がいる私」を、少しだけうらやんでもらえました。
つい4年前には、節子に先立たれて、これ以上ない不幸を自らに重ねていたのに、いまはうらやまれても、それを素直に受け容れられる自分がいます。
とても不思議な気がします。
節子がいなくなってから、わが家はどことなく寂しく、哀しく、そして寒々としています。
節子の位牌の前には、いつも花が供えられていますが、それが逆に寒さを感じさせることさえあります。
和室にたてたコタツも、いまはそこに集まる人もいません。
身体は暖まりますが、心はなかなか温まりません。
今日のように、とても寒い日は、心まで冷えてきます。
実は、お2人からうらやんでもらえたような「節子がいる私」と同時に、「節子のいない私」が同居しているわけです。
そして、「節子がいる私」が「節子のいない私」を悩ませるのです。
なぜいまここに節子がいないのか、と。
そういう思いに襲われると、心身が動かなくなるのです。
その哀しさは、なかなかわかってはもらえないでしょうが。
愛する人が「いない」という意味はふたつあります。
「まだいない」のか「もういない」のか。
あるいは、「意識的にいない」か「身体的にいない」のか。
まあこんな理屈はどうでもいいのですが、心身が冷えてくると、そんなことまで考えてしまいます。
困ったものです。
まだ外はみぞれです。
明日の朝は白くなっているでしょうか。
朝起きて、窓を開けると真っ白な世界。
「雪だよ」と節子を起こしたことを思い出します。
雪の朝は、いつも私のほうが早起きでした。
それにしても寒いです。
手がかじかんできています。
節子に暖めてほしいです。
昔のように。
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