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2012/01/04

■「もはや政府が社会を代表するものとはいえなくなってしまった」

タイトルの言葉は、今朝の朝日新聞に掲載されているアントニオ・ネグリの言葉です。
ネグリはイタリア生まれの政治哲学者で、「マルチチュード」の著者です。
「マルチチュード」は、実に示唆に富む本です。

日本では最近、毎年のように首相が変わります。
それを嘆く人が多いですが、前にも書きましたが、嘆くのではなく「なぜそうなるのか」を考えればなんでもない話です。
つまり首相とはそういう「地位」になったのです。
誰であろうと大した問題ではありません。
私自身は政権交代で、そうした状況を変えられると思っていましたが、やはりそうではありませんでした。
ネグリのメッセージは、思いのほか、現実的だったのです。
私にはビジョンに見えていたのですが、そうではなかったのです。
それが昨年、かなり実証されたように思います。
日本で、ではなく、中東や欧米で、です。
もしお手元に今日の朝日新聞があれば、ぜひネグリの対談記事をお読みください。

野田首相は「大義があれば必ずわかってもらえる」と語っています。
私もそう思います。
しかし、問題は「大義」とは何かです。
政府の大義と国民の大義とは違います。
さらにいえば、国民の大義と人々の大義とも違います。
私自身は「日本力」などという言葉を見ると虫唾が走ります。
まるで大東亜戦争前夜のようだからです。
「大義」を持ち出す人は信頼できません。
私は大義などという大げさなものよりも、目の前にいる困った人たちへの心遣いを大切にしたいです。
それでは国家は維持できないといわれるかもしれませんが、従業員をリストラ解雇して企業を維持するのと同じように、立脚点を変えれば国家の維持の意味は一変します。
多くの人が、これ以上、国家財政が赤字になれば国家が破綻するといいますが、破綻して何が悪いかがわかりません。
ネグリも話しているように、国家の破綻は、人々の民主的な権利が縮小され、生活は悪化するかもしれません。
しかし、それが避けられないのであれば、甘んじて受け容れたいものです。
少なくとも、よくわからない「大義」のためにではなく、困窮している隣人のために、私は苦労を受け容れたいと思います。

政府や行政に、過大な期待をするのはもうやめたいものです。
消費税をあげるということは、そこへの期待を高め、依存を強めるということではないかと思います。
増税はやむをえないとしても、大義のためなどとは言ってほしくありません。

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