■節子への挽歌1584:「一人」なのか「一人でない」のか
昨日の続きです。
東日本大震災によって、「生まれて初めて一人で年を越した人」は、たくさんいるはずです。
私の場合は、娘たちがいます。
しかしまったくの「一人」で年を越した人もいるでしょう。
それを思うと、果たして私に耐えられるだろうかと思いますが、やはり支えてくれるのは、自分は「一人ではない」という気づきかもしれません。
しかし、そうは言っても、「一人は一人」なのです。
一人であることの「寒さ」は体験しないとわからないかもしれません。
昨日の挽歌も今日のこの文章も、矛盾だらけだと怒られそうです。
「一人」なのか「一人ではない」のか、どちらなのか、はっきりしろと言われても仕方がありません。
ここがなかなかわかりにくいのですが、「一人」であって「一人」でなく、「一人」でなくて「一人」なのだ、ということなのです。
わかりやすくいえば、一緒にいる感じがするのですが、言葉が戻ってこないのです。
あんまりわかりやすくないですね、すみません。
ともかく私自身、わからないのです。
だからこそ、「一人で年を越した」という言葉が、心に刺さったのですが。
今朝もまた別の方からコメントがありました。
「生まれて初めて一人で年を越す」同じように感じている人が他にもいるということは、この気分が私の負け惜しみではないのだと自分を元気づけられます。
私もそうでした。
でも佐藤様が書いてらっしゃるように孤独ではないのです。
「本気で愛したことがあれば、人は決して孤独にはなりません」
という言葉。
本当にその通りだと思いました。
実は、節子がいなくなって以来、自分が少し「ひがみっぽく」なっているような気がしてならないのです。
事実、時々、幸せそうな2人ずれを見ると嫉妬しますし、仲たがいしている夫婦を見ると、なんでこの人たちでなく私たちに別れが来たのだろうかと罪深い思いを持ってしまうのです。
だから自分の言葉を誰かが体験的に肯定してくれると元気が出るのです。
私はいま「一人」なのか「一人でない」のか。
心身は揺れ動きます。
そう思っている人は、今年はきっと多いのでしょう。
今年の冬が寒いのは、そのせいかもしれません。
一人であることの「寒さ」は体験しないとわかりません。
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