■節子への挽歌1588:「あの世へ行くのが現実味を帯びてくる」
節子
今年になってからの時間の進み方はなぜかとても速いです。
そのせいか挽歌が間に合いません。
年初からまた1日、遅れてしまいました。
節子もよく知っている丹波さんも、もう80歳です。
久しぶりに近江八幡で地域活動に取り組んでいた丹波さんを一緒に訪ねたのはいつだったでしょうか。
もしかしたら、あの時はもう節子は闘病中だったかもしれません。
最近、私の時間感覚は大きく狂っていますので、いささか危ういですが。
丹波さんからメールが来ました。
80になると、あの世へ行くのが現実味を帯びてくる。まさに丹波さんらしい。
つまり神や仏が気になりだす。
日本の神や仏は西洋のコンセプトでいう宗教ではなく。
なんともイノセントではあるが、わかりやすく本質をついた教えであることに感じいり。
おだやかにあっちへゆくことをうけいれる仕組みをもつ。仏教の教えは「この世たれぞつねならむ」無常、
つまり実体のあるものはこの世にはない。
ということを前提として、
神道の教えは「敬神崇祖」
敬神は八百万の神々、つまり命をはぐくむ環境を敬うことだし。
崇祖は生きとし生きるものの先祖、
つまり命の始まりとそのつながりを大切にしなさいよという教えである。では大切にするにはどうすればいいのか、それは「祈り」しかない。
このごろ、この仕掛けはうまいことできとるなと感じいる日々であります。
丹波さんは、私が会社に入った時の最初の上司でした。
「おさむちゃん、せっちゃん」と、私たちを呼んでいました。
私が、会社時代にとんでもないプロジェクトを起こした時にも、丹波さんはただただ応援してくれました。
私たちは、そういうたくさんの人たちに支えられて、実に自由に生きてきました。
娘のユカからは、お父さんたちは常識がなかったから、と今でもよく言われますが、常識が欠落していても、何とかやってこられたのは、周りの人たちのおかげです。
「あの世へ行くのが現実味を帯びてくる」
とても感じ入る言葉です。
私も、少しずつですが、そんな気分が芽生えだしています。
それに、彼岸に節子がいると思うと、彼岸と此岸はつながっているような気がして、たいした「道のり」ではないのではないかなどと思えるようになってきました。
年初はちょっとばたばたしましたが、今年は平安に暮らせそうです。
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