■節子への挽歌1597:家族と夫婦
節子
昨日のサロンで、家族ってなんだろうかという話になりました。
若い参加者から、最近、血縁のない家族の話がテレビや映画で増えているという話が出たのを契機に、いろいろな意見が飛び交ったのです。
家族とは何か。
考えていくと難しい話です。
25年ほど前に住まい方研究会というのをやっていましたが、その頃、私が提起していたのは「核家族」ならぬ「拡家族」の復活でした。
血縁は家族を形成する最も効率的な要素ですが、それだけでは家族は血族の一部になってしまいます。
生きていく一人の人間の立場から考えると、それが絶対でもないでしょう。
それに血のつながりなどは見えませんから、あまり重要な要素ではないようにも思います。
DNA検査などで調べることにどんな意味があるのか私には理解できません。
その人と一緒にいると一番安心できて、その人であればなんでも相談できる。
私は、そんな人と暮らしたいと思います。
最初からそんな人がいるかといえば、それは親しかないでしょう。
しかし親との暮らしは対等ではありません。
それに、親にとっての子どもと子どもにとっての親はかなり違うものであって、たぶん平等な関係性は形成されないように思います。
ですから親子関係は家族の結果であって、家族の根幹にはならないように思います。
家族の基本は血縁のない夫婦だと私は思います。
だとしたら、家族にとっては血縁はきっかけでしかありません。
最初からお互いにこの人といると安心で、なんでも相談できるというような人は絶対にいないでしょう。
そうした絶対的な安心の関係は、時間をかけて一緒に暮らしながら育てていくものです。
それが夫婦だろうと思います。
そして、その関係性を育むために、親子関係が効果的に作用してくるのではないかと思います。
いささかややこしい話ですみません。
ところで、私にとって、一緒にいるだけで安心で、何でもさらけ出せ、なんでも相談できる人は節子でした。
節子は実に頼りない人でしたが、なぜか節子に頼めば何でも大丈夫、最後は節子が何とかしてくれるという、私にとっては、一種の「魔法の杖」でした。
全く論理的でないのですが、精神的に節子がいると安心だったのです。
それが夫婦なのではないか。
そんな気がします。
最近離婚が多いですが、離婚とは夫婦というしっかりした家族になることに失敗したことなのかもしれません、
夫婦になってしまえば、離婚など起こりようがありません。
家族のことを話しながら、そんなことを思っていました。
| 固定リンク
「妻への挽歌08」カテゴリの記事
- ■第1回リンカーンクラブ研究会報告(2021.09.06)
- ■節子への挽歌1600:「節子がいる私」と「節子のいない私」(2012.01.20)
- ■節子への挽歌1599:苦労こそが人を幸せにする(2012.01.18)
- ■節子への挽歌1598:青空(2012.01.17)
- ■節子への挽歌1597:家族と夫婦(2012.01.16)
コメント