■節子への挽歌1589:愛
節子
挽歌の読者のK(makimakiro)さんからコメントが届きました。
私は、人生にとって必要なものは「愛」しかないと思っています。池谷裕二さんの「進化しすぎた脳」という本にこんな文章が出てきます。
モノや人という物理的存在は「愛」があってはじめて意味を持つものと。
世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。私も以前からそんな風に考えていたので、この文章に出会った時にはとても納得できました。
池谷さんはこう言うのです。
まず世界がそこにあって、それを見るために目を発達させた、というふうに世の中の多くの人は思っているけど、ほんとはまったく逆で、生物に目という臓器ができて、そして、進化の過程で人間のこの目ができあがって、そして宇宙空間にびゅんびゅんと飛んでいる光子をその目で受け取り、その情報を解析して認識できて、そして解釈できるようになって、はじめて世界が生まれたんじゃないか。Kさんは、「モノや人という物理的存在は「愛」があってはじめて意味を持つ」といいます。
これにも、私はとても共感します。
では、池谷さんの話とKさんの話は、どうつながるでしょうか。
目を通して世界が形成されるのであれば、愛を通して世界は意味をもってくるわけです。
意味のないものは存在しないのと同じだと考えれば、両者はつながってきます。
目で認知することで世界は現出し、愛を注ぐことで世界は輝いてくる。
そんなところでしょうか。
もしそうならば、愛を注げば世界は輝いてくるとも言えるわけです。
あるいは、愛するものは存在しているのだが気がついていないだけ、とも言えるかもしれません。
Kさんはつづけて、「節子様と早くに出会えた佐藤様を、未だ独り者の私はいつも羨ましく思っています」と書いています。
しかし、私が出会ったのは「節子」ではなく、「愛」だったといえるでしょう。
大切なのは、「対象との出会い」ではなく、「愛との出会い」なのですから。
みんな、それになかなか気づきません。
私は、節子を深く愛していましたが、節子だけを愛していたわけではありません。
節子は、私の愛の象徴だっただけなのです。
節子は、もちろん、そのことを知っていました。
私が、地面を歩くアリさえも愛していたことを節子は娘たちにも話していました。
そこにはいささか誇張がありますが、嘘でもありません。
そして、節子は私のそこが好きだったのです。
「愛」とは悩ましいテーマです。
しかし、人を愛するのは簡単です。
ただ愛すればいいのですから。
でもせっかく育てた愛の対象がなくなってしまうと、人は混乱してしまいます。
でもおちついてくると、その「愛」はなくなってはいないのだということに気づきます。
そして、物理的存在はなくても、愛は存在することに気づくわけです。
Kさんのメールは、改めてそのことに気づかせてくれました。
ありがとうございました。
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コメント
私は、「愛」は受け取ってくれているという感覚があってはじめて温かな感情を伴って自分に返ってくるものだと思っています。
「愛」はだから双方向です。一方通行の愛はさみしい。形がそこにあってもなくてもいいんです。感情が感覚が「愛」を感じられれば。
抽象的な表現ですみません。
多くの人にとって本当の「愛」を見つけるのはとても難しいことだと思います。
「好き」というのとは決定的に違うのです。
ここのところはまだうまく言葉にできませんが、私は佐藤さんに一種の「愛」を感じました。
変な意味にとらないでください。^^;人類愛、とでもいうのでしょうか。
だから、佐藤さんはそういう愛をお持ちの方なので、きっと多くの人を惹きつけるのだと思います。
まさか、挽歌に私のコメントを載せてくださるなんて思ってもみなかったので、ちょっと気恥ずかしいですがとても嬉しいです。
本当に、縁は奇なもの稀なもの、ですね。
若輩者ながら、そして勝手ながら、なんだか佐藤さんと心が通じ合えたような気がして心が穏やかになりました。
ありがとうございます。
投稿: makimakiro | 2012/01/14 00:06
makimakiroさん
返事が遅くなりました。
この数日、問題が多発しすぎてパンク気味でした。
愛は結果的に双方向に必ずなるだろうと思います。
愛は反射して返ってくるからです。
ただそれは意図して目指すべきものでは内容に思います。
またその形もまた一律ではありません。
またすべての人が、愛を持ち、愛を発しているとも思います。
しかしあまりに愛は多様なので、気づかれないことも多いです。
時に愛は「憎悪」の形をとることもありますし。
まあ以上は私の勝手な思いなのですが。
投稿: 佐藤修 | 2012/01/20 14:36