■節子への挽歌1606:パセーナディの問い
原始仏典の阿含経が最近注目されていますが、その一つ『サンユッタ・ニカーヤ』に有名なコーサラ国王パセーナディとマリッカーの対話の話があります。
国王は王妃に、「マリッカーよ、この世で一番愛しい人は誰かね」と訊ねます。
王は、当然、マリッカーが「王」と答えると思っていたのです。
ところがマリッカーは「私にとって一番愛しいのは自分自身でございます」と答えたのです。
そして、「ところで王様、あなたはいかがですか」と訊かれます。
王様も結局は「私にとっても、私自身が一番愛しい」と答えるのです。
この話をパセーナディから聴いたブッダは答えます。
「人の思いはいずこへゆくも、自己より愛しきものはない。それと同じく、他の人々にも自己はこの上もなく愛しい。さらば自己の愛しきを知る者は、他を害してはならぬ」。
この話には、次のようなことが含意されていると多くの本には書かれています。
自己を愛する人は、他人を愛する。
自己へ向けられた愛のごとく、他人へ愛を与える。
他人を害する者は、自分自身を害している。
私にはかなり違和感があります。
私とは発想が逆なのです。
もっと正確に言えば、私であろうと相手であろうとどちらでもいいのです。
この問い自体に、パセーナディの愛の本質が見えてきます。
ブッダの答えも私には不満です。
私は昨今の原始仏典ブームに大きな違和感を持っています。
私はこの問いに、こう答えます。
私たちの関係を支えてくれている、すべての人が愛おしい、と。
大切なのは、関係性なのです。
一人の個人ではありません。
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