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2012/01/05

■節子への挽歌1586:人との距離、彼岸との距離

節子
年明け早々の訃報です。
八尾さんが元旦の日に心不全で亡くなられました。
今年、喜寿を迎えるはずでしたが、その日が「偲ぶ会」になりました。

八尾さんは某社の社長を退任後、経営道フォーラムのプロジェクトを継ぐことになり、その関係で節子も何回かお会いしたことがありますね。
最近は小諸郊外に隠居され、自然のなかでの豊かな生活をされているとお聞きしていましたが、まさかの訃報でした。
この3年ほど、お会いできていませんでしたが、今年はお会いしようと思っていたところでした。

皮肉なことなのですが、そろそろお会いしようかと思い出した途端に、訃報が届くことが時々あります。
重久さんの時がまさにそうでしたし、三浦さんの時もそうでした。
これはしかし、偶然ではないのかもしれません。
訃報が届く前に、最近会っていないなと思い出す人と思い出さない人との「距離感」は明らかに違うのですが、言い方を変えると、距離感の近い人の場合、不思議と訃報が届く直前になぜかその人のことを思い出しているのです。
思い込みすぎかもしれませんが。

八尾さんは小諸郊外に庵を建てていましたが、数年前にそこでの暮らしに軸足を移しました。
結局、その庵を訪れることはできませんでしたが、八尾さんらしい、晴耕雨読の豊かな生活だったのでしょう。
昨年、八尾さんが私のことを少し心配していたという噂を聞きました。
その時にはなんとも思わなかったのですが、昨年末に八尾さんのやっていた研究所を訪問した時、なぜか八尾さんに会わなければと思ったのです。
そんなところに、突然の訃報です。

しかし、考えてみれば、驚くことはありません。
私も含めて、70歳を過ぎれば、人はいつ逝っても不思議ではありません。
こんな言い方をすると不謹慎かもしれませんが、彼岸はさほど遠くではないのです。
最近、そういう気分が育ちだしています。
節子が彼岸にいるからかもしれませんが、訃報を聞いても悲しみはあまり感じません。
私と彼岸の距離が近づいているのかもしれません。

人との距離感、彼岸との距離感。
私も次第に彼岸の人との距離感が近くなってきているのかもしれません。

節子
そちらで八尾さんに会ったら、よろしくお伝え下さい。

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