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2012/01/12

■節子への挽歌1592:挽歌を書き続けている効用

池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』という本はともかく面白い本です。
ところがそこに、こんな文章が出てくるのです。

記憶は生まれては変わり、生まれては変わる。この行程を繰り返していって、どんどんと変化していく。
記憶は常に変化しているというのです。
そこがコンピュータと人間の違いです。
コンピュータは情報を「そのまま」保管し、後で引っ張り出しても同じままに出てきます。
ところが人間が記憶を思い出す場合は、そうではないのだそうです。
人間の記憶は、すごく曖昧に、しかもたぶんいい加減に蓄積されているため、思い出す度に、その内容が書き換わってしまうわけです。
その思い出した記憶が、また保管されるわけですから、その内容はどんどんと変わっていくことは間違いありません。
そうして「思い出」は、どんどん自分勝手に書き換えられていくことになります。

この挽歌ももう1592回目です。
池谷さんの話に従えば、節子の記憶は1592回の思い出しを繰り返して、その記憶はたぶん大きく変わってしまっているでしょう。
もしかしたら、実際の節子と今の私の心にある節子は、全くの別人であるかもしれないわけです。
現に娘たちは、お父さんはお母さんのことを美化しすぎているのではないか、と笑います。
まあそれは必ずしも否定できません。
しかし、それは言い方を変えると、節子と私の関係は、今も成長しているということでもあります。
節子と一緒に今も暮らし続けていたとしても、5年前とは違った節子像を、私は持っていると思いますから、同じことなのです。

脳にはまた、実際に起きてしまったことを自分に納得できるように理由づけるという機能があるそうです。
これを「作話」というそうです。
要するに、脳は勝手に自分にとって快い物語を生み出してしまうわけです。
こうして記憶はどんどんと物語化していきます。

こういう視点で、この挽歌を読み直して見ると、私の節子像がどう変わってきているかわかるかもしれません。
もしかしたら、最初の頃の節子と最近の節子とは別人になっているかもしれません。
それもまた実に興味あることですが、しかしあんまりも挽歌を書き続けてしまったので、いまさら読み直す気力は全くありません。

しかし挽歌を書き続けてきて、高まったなと思う能力が一つあります。
ゲシュタルト群化能力、ばらばらの要素を見て全体をイメージする能力、です。
私は子どもの頃、探偵になりたいと思っていた時期があります。
シャーロック・ホームズのファンでした。
しかし、ホームズのようなゲシュタルト群化能力が不足していたので、早い時期に諦めました。
いまならホームズほどではないにしても、かなり個々の要素の奥にある全体像が見えるような気がします。
それが挽歌を書き続けている効用かもしれません。
もちろん、私も節子も、そして私たちの関係も、成長し続けているというのが、最大の効用なのですが。

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