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2012/01/28

■節子への挽歌1608:関係性

節子
この数日、「関係性」について改めて考えています。
23年ほど前に会社を辞める直前に行きついたテーマが「関係性」だったのですが、それ以来、考えるでもなく考えてきました。
最近、改めて「関係性」の重要性を実感しています。
個人は個人として生きているのではなく、さまざまな人や自然との関係性の中で生きているということです。
仏教でよく語られる「人は生きているのではなく生かされているのだ」ということはとても納得できます。
あたたかな関係性の中で生きていると、実に心地よいのです。

ところが、その関係性が壊れてしまうとどうなるか。
私は節子を見送ることで、それを少し体験しました。
それまで営々として築いてきた自分の世界が壊れてしまった感じで、まさにおろおろとせざるを得ませんでした。
そこから抜け出られたのは、節子はいなくなったけれども、節子との関係は存在することに気づいたからです。
その関係を実感する体験もいろいろとしました。
それが、私の世界がゆるやかに変わりだす契機になりました。

人との関係が育つと、それを壊したくないとみんな思います。
しかし、節子との関係のように、お互いにそのまま持続したくてもできない場合もあります。
そしてある関係が変化すると、その周辺の関係にも微妙な影響を与えます。
節子との別れを体験した後、私の人との付き合いの世界は変わりました。
それまでよく湯島にも来ていた人が、なぜか突然来なくなったりしました。
節子がいなくなったからではありません。
たぶん節子がいなくなったことで私が変わったためでしょう。
私には理由が全くわからない場合もありますが、変化には必ず理由があります。

最近、親しい友人たちとの意識のずれを感ずる時が増えています。
おそらく問題は私自身にあります。
もしかしたら多くを期待しすぎるためかもしれません。
角を立てずに関係性を維持することが、ますますできなくなってきています。
此岸での残り時間が少なくなってきたからかもしれません。
節子がいたら、きっと和らげてくれるのでしょうが、どうもうまく生きられない自分を感じます。

私全体を受け容れていた人がいなくなることの、それが意味かもしれません。
いつか書きましたが、基軸がなくなると、人は戸惑い、怒りやすくなるのかもしれません。
まさに、今の私がそうかもしれません。
心しなければいけない、と、そう思います。

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