■節子への挽歌1636:懺悔2:無分別
懺悔ついでに、もう一つです。
私の分別のなさはかなりのものです。
自覚しているのになぜ正さないのか。
それには理由があります。
それは「正すべき」は私ではないと思っているからです。
私は現代の社会常識や大人の生き方から考えるとかなり逸脱した価値観や考え方のようです。
節子もよく言っていましたし、いまでも時々、いろんな人に言われます。
しかし、私自身は、人間の長い歴史という視野で考えると、極めて常識的で平凡な考えの持ち主だと思っています。
つまり現代という時代の人々の生き方こそが特別なのです。
たとえば、お金のために生きるなどと言うのは、たかだかこの100年程度の生き方でしょう。
私は自分の心身から出てくる素直な生き方に従っているだけです。
そこまでは節子も結婚して数年で理解し、共感してくれました。
私があまり世間的はない意思決定をしても、節子はそれには大きく異は唱えませんでした。
それが修の生き方だから、とむしろ賛成してくれました。
私が突然会社を辞めるといった時もそうでした。
拍子抜けするほど、節子はすぐにも賛成したのです。
しかし、家族の迷惑を考えない言動で家族はたぶん迷惑を受けていることでしょう。
節子にも多大な迷惑を与えてきたのかもしれません。
しかしこれも歳を重ねるに連れて、節子に判断を仰ぐ事が増えました。
世間流とは違ったことをする時には、まず、節子に相談するというようにしたのです。
でも、いまから考えると、私の無分別、あるいは「今様の常識」(私からすれば偏屈でしかありませんが)に反する行動は、節子のストレスを高めていたかもしれません。
そもそも結婚の時からそうでした。
私の考えを貫いたが故に、節子は親戚からひどい言い方をされたのかもしれません。
何があっても親戚には弱音や不満は口にしないと、節子は固く決意していました。
しかし最後まで、それを貫き通したおかげで、たぶん節子の親戚からの私の評価は、決してわるくはなくなったのです。
しかし、そこに至るまでの節子の苦労には、あまり思い至りませんでした。
そうしたことも、気づきだしたのは節子を見送ってからです。
私の無分別が大きくは逸脱せずにすんだのは、節子のおかげです。
私が会社を辞めてからは、節子のアドバイスにかなり従ったつもりです。
彼岸に行ったら、それも節子に話して感謝しようと思います。
懺悔しようと思うと、際限なく、節子への謝罪の材料が出てきます。
あんまり良い夫ではなかったのかもしれません。
でもまあ、節子はそれなりに幸せな人生だったでしょう。
苦しい症状の中で、その言葉を残してくれた節子には感謝しています。
残されたものは、そういうわずかな言葉にすがって生きているものですから。
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コメント
佐藤様
pattiです。
ずっと読ませていただいています。共感する言葉にはいつもはっとさせられています。
今回は最後の、
>残されたものは、そういうわずかな言葉にすがって生きているものです
に思わず涙があふれました。
彼も苦しい中で私に言葉ではありませんが、しぐさで愛情を伝えてくれました。
そして、私も毎日彼に大きな意味でも、ささやかな場面を思い出してもごめんねと謝る(I'm sorry)日々です。もちろん、Thank you,I love you の思いも毎日伝えていますが、I'm sorry はとても胸が痛みます。
哀しみは日々深まっていくという本の一節がありました。
今まさにそういう日々になっています。胸の痛みはそのせいでしょう。
いさかいも含めてささやかな日常の幸せがますます際立って甦ります。
永遠に失われた日常、その中で生きていくのは本当に大変なことです。
でも、私は、私こそは彼に対してだけでなく、私が行ってきたことに対して懺悔して生きていかなければなりません。
だから苦しいのは当然なんです。そう理解してもまた葛藤し・・・その繰り返しの毎日です。それでも、救いは時間が過ぎていくことです。
佐藤様と節子様の二人の世界、積み重ねた日々、
積み重ねたからこそ分かり合えたこと、佐藤様も様々な思いにあふれていることでしょう。
私も苦しいけれど、二人の世界を大切に大切に心に抱いて生きていきます。
Patti
投稿: patti | 2012/02/27 04:14
Pattiさん
ありがとうございます。
>哀しみは日々深まっていくという本の一節がありました。
私もまさにそう実感しています。
同時に、深くなっていくがゆえに表層的(感覚的)には意識しなくなってもいきます。
しかし心身の奥底で、哀しみが大きくなっているのを、時々、感じます。
そうなると、不安感や疲労感がどっと心身を襲ってきます。
自分ながらに、ちょっと恐くなることもあります。
ですから、それをどこかで発散させていかないと
心身の平安が保たれません。
そんな気がしています。
>私も苦しいけれど、二人の世界を大切に大切に心に抱いて生きていきます。
あまり思いつめませんように。
春の桜はまだ見られないですが、空の青さを見るのが私は大好きです。
投稿: 佐藤修 | 2012/02/27 08:54