■アリス・スチュワートの信念
胎児期のレントゲン検査が小児がんの発生を激増させることを証明したデータをアリス・スチュワートが発表したのは1956年でした。
多くの医師がそのデータに触れたにもかかわらず、妊娠中の母親たちへのレントゲン検査が行なわれなくなったのは、20年以上たった1980年に入ってからだそうです。
いま、読んでいる「見て見ぬふりをする社会」(河出書房新社)に出ている話です
なぜ医師たちは、危険だと繰り返し証明されていた妊婦へのレントゲン検査を続けたのか? それに関して著者は、当時の医師界の権威だった人が、アリスを認めたくなかったことが一番の理由だったのではないかと書いています。
アリスは権力側の人でも、またアカデミズムの人でもなく、現場の人、実践の人だったのです。
いま、私は認知症予防ゲームの普及にささやかに関わっていますが、そこで感じていることを思い出しました。
しかし、著者はもう一つ重要なことを書いています。
アリス・スチュワートの小児がんに関する調査は、通常の診療に疑問を投げかけるだけにとどまらない過激で挑戦的な内容だった。彼女の発見は当時の科学界では主流になっていた、重大な説の問題の核心を衝いた。放射線のようなものは大量に被曝すれば危険だが、これ以下の値ならば絶対に安全だという閥値が必ずあるという閥値説が支持されていた。しかしアリス・スチュワートはこの場合、胎児にとって放射線はどんなに少量でも有害であると主張したのだ。科学界の権威の礎が攻撃されたのだ。これを読んで思いだしたのは、最近の放射線汚染の報道です。
どこまでが危険で、どこまでが安全かという、私には全く意味のわからない議論が横行しています。
そこで問題になっているのが、まさに「閾値」です
いまもなお、「閾値説」は科学者の拠り所になっているのです。
ちなみに、アリスの主張に関しては、1977年に、アメリカの放射線防護委員会が胎児にⅩ線検査をすればその胎児はがんになると発表したことによって、閾値説は斥けられました。
福島原発事故後、日本の科学者や政府の言っていることとのつながりはわかりませんが。
私は、閾値説は科学者の傲慢さと無知の表明以外の何ものでもないと思っています。
閾値説の悩ましさは、それこそが科学と思わせるところがあるからです。
白か黒かではなく、程度問題だというのも、何となく「賢さ」を感じさせます。
それに、程度論を取り入れれば、事態は自分の都合のいいように解釈できますから、だれにとっても都合がいいのです。
しかし、アリスはそんな似非科学やご都合主義には流されなかったのです。
それは、たぶん、アリスが現場の実践の人だったからでしょう。
それがアリスの信念を貫く力だったように思います。
科学技術のパラダイムは時代とともに変わります。
科学的知見は絶対のものではありません。
閾値も時代によって変わります。
そんなものに振りまわれることなく、アリスのように、もっと物事の大きな意味を考えなければいけないと、改めて思いました。
ちなみに、わが家の放射線量はテレビなどで報道される千葉の平均値の数十倍です。
ここはホットスポットと言われていますが、それは、現代という社会を生きる者にとっての、不運の一つだろうと、私は受け止めています。
運が悪いか良いかは、人に生まれついたものかもしれません。
自らの不運をちょっとだけ嘆きたくなることもありますが、誰にせいにもできません。
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