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2012/02/23

■「見て見ぬふりをする社会」と「見ても見えない社会」

米原子力規制委員会が一昨日公開した福島原発事故後のやりとりの記録が公開されました。
テレビのニュースで、3000ページを超える文書の映像とその一部の内容を見ましたが、そのすごさに感動しました。
しかし、これがアメリカのスタンダードなのでしょう。
記録さえ残さなかった日本政府とは大違いです。
小学校時代にアメリカの「知る権利」という考えを社会科で学んだことを今でもはっきりと覚えていますが、アメリカではその伝統がしっかりと残っているようです。
それにしても、その記録の仕方が人間的で実にいいです。
会話をそのまま再現していて、人の表情さえ感じられます。
これがアメリカの政府の「もう一つの顔」なのでしょう。
勝手な理屈で、密室の会議が行われる日本の政府とはかなり思想が違うのでしょう。
マスコミのミッションも全く違います。
公に従う文化か、公を監視する文化か。

もっともアメリカでも状況はそう楽観できないようです。
最近読んだ「見て見ぬふりをする社会」には、そうした事例がたくさん登場します。
お金万能のアメリカ社会にも、そうではない動きもまだ残っているようです。
ペンタゴン白書を内部告発的に公開したエルズバーグのような人が生まれる素地はなくなってはいないのでしょう。

組織の一つの役割は、責任の明確化(構造化)ですが、現実には組織は責任を回避するための道具に利用されます。
そうならないためには、よほどしっかりした情報管理が行われていなければいけません。
生々しい生きた言葉の記録をどう残し、どう検索できるようにしておくかは、私が会社に入った1960年代から話題になっていたテーマです。
情報技術は飛躍的に発達しましたが、管理思想はあまり変わっていないのかもしれません。
そのため、その後の「情報化」は、私には「非情報化」に見えています。
それは「何のための情報」というテーマにおける「何」の議論が不十分だからかもしれません。

アメリカは日本以上にシステムの国で、主導権はもはやシステムに移っています。
1960年代に、それを予感した若者たちの反乱がありましたが、それをある意味で指導したチャールズ・ライクは、システムへの敗北傾向が強まる中で、痛々しい反撃の呼びかけを行いました
しかし、金融システムに見るように、そのシステムの実体は人間には見えなくなり、もはや管理不能になっているわけです。
「見て見ぬふりをする社会」の著者マーガレット・ヘファーナンは、そうした事態に立ち向かうために、まずは現実をしっかりと見て、疑問を抱くことだと書いています。
米原子力規制委員会の公開文書は、その現実を見るための材料です。
この記録と公開を知って、アメリカにはまだシステムと戦っている人たちがいることを知りました。
アメリカ人ではないですが、少し前になったウィキリークスのジュリアン・アサンジもその一人です。
イラク戦争やアフガン介入、あるいは9.11以後の政府行動に関しても、こうした文書がきちんと残っているのでしょう。
アメリカには、第2、第3のエルズバーグが出てくる素地があるわけです。

日本では、現実を抹消するために記録を残さないようにしているわけですが、これでは「見て見ぬふりをする社会」どころか「見ても見えない社会」になっていくのかもしれません。
それが楽だと思う人が圧倒的に多いのでしょうね。
私には生きづらい社会ですが。

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