■節子への挽歌1628:心の糧
節子
最近、なんだか挽歌に追われているようです。
書いても書いても、また書かないと追いつけません。
そして、日がずれてしまうことが多くなってきました。
もっと習慣化しないといけませんね。
しかし、それが私の最も苦手なことなのです。
挽歌が書けていないからといって、節子のことを思い出さなくなってきているわけではありません。
テレビで心癒される風景を見れば、節子を連れて行きたかったと思い、おいしそうなレストランのメニューを見れば、節子を連れて行けなかったなと悔い、新しい発見があると節子に話したくなるのです。
まあ、しかしこれは言い訳かもしれません。
ある人が、昨日、自分の仕事の相談に来ました。
相談に乗っていて、なんで私が相談に乗らないといけないのと、つい訊いてしまいました。
こんなことをやりたいという話ばかりだったからです。
節子も知っているように、私は、思いつくとすぐに質問してしまうタイプなのです。
それで時には、相手に失礼なことも起こってしまいます。
幸いに昨日は、手は気分も害さずに、佐藤さんは「心の糧(かて)」ですからと言うのです。
心の糧?
要は、食べられているわけです。
そういえば、必ずといっていいほど、相談に乗ると何かをやらないといけない気分になって、ついつい自分の仕事を後回しにして、やってしまう自分がいます。
実に困ったものです。
今回もそうなりそうです。
うれしいような、腹立たしいような、奇妙な気分でした。
心の糧、心を支えるもの。
私にとっての「心の糧」はなんだろうかと考えました。
節子は心の糧なのだろうか。
どうもぴったりしませんね。
でも、もしかしたら、この挽歌を書くことは、私にとっての「心の糧」かもしれないと思いました。
挽歌を書き続けていることで、私はなんとか平安に生きていられるのかもしれません。
だとしたらもっときちんと毎日書かないといけませんね。
そうしないと、ほかの人の「心の糧」になることもできません。
みんなに食べられて、細く萎えてしまうことは避けたいですし。
だれかの「心の糧」には、あんまりなりたくはありません。
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