■節子への挽歌1640:雪を見ながら思い出したこと
節子
湯島で、雪が降っているのをボーっと見ていました。
朝から降り始めた雪は、いまも降り続いています。
風もあって、窓から見ているとかなり横に流れています。
積もりそうな気配です。
節子と湯島でオープンサロンを始めた頃、湯島に泊ったことがありました。
サロンで遅くなったので、泊ってしまおうということになったのです。
もしもの時のために、当時は寝具も少しだけ置いておいたのです。
お風呂もないし、食事の材料もないし、テレビもないし、どうやって泊り、翌日はどうしたのか、今では全く記憶がありません。
節子が残していった日記を読めば、間違いなく書かれているでしょうが、まだ節子の日記は読む気にはなれません。
最後まで読めないかもしれません。
私たちはとても狭い部屋で一緒に暮らし始めました。
部屋は6畳と2畳と2畳よりも小さなキッチンの借家でした。
もちろんお風呂はなく、隣の部屋の音まで聞こえてくる安普請のアパートでした。
そこでしばらく過ごしました。
節子の叔父さんが訪ねてきて、あまりに狭いので驚いていたという話も聴きました。
その後、会社の大きな社宅に入居できたのですが、社宅のことはほとんど覚えていません。しかし、最初の小さな借家のことはよく覚えています。
そこにいたのも、冬だったと思います。
寒くて夜は凍えるようだったのを覚えています。
でも私にはその頃の生活がとても気にいっていましたし、今も一番豊かに感じられる思い出です。
そこでの暮らしが、たぶん私たちのその後を決めたのでしょう。
その頃の暮らしが、私の理想だったのです。
休みの日はほとんど毎週、奈良か京都に行っていました。
おいしい食事をするわけではありません。
お金もなかったので、ただただ神社仏閣周りくらいだったような気がします。
当時は、私が主導権を持っていましたから、たぶん節子は私に引きずりまわされていたのかもしれません。
おかしな人と結婚したものだと思っていたかもしれません。
生真面目な節子といささか変わった私との結婚は、長くは続かないと思っていた人もいたでしょう。
そんな話も後から耳に入ってきたこともあります。
しかし、それがなんと最後まできちんと連れ添えたのです。
もちろん途中で「危機」がなかったわけではありません。
しかし「危機」のない結婚生活などは退屈以外の何ものでもないでしょう。
私は、そういう考えをしています。
雪がちょっと小降りになってきました。
雪を見ていて、いろんなことを思い出しましたが、書いているうちに雪とは無念なことになってしまいました。
あの頃、雪は降っていただろうか。
小さな借家時代の記憶には、雪の記憶も桜の記憶もまったくありません。
ただ狭い部屋と節子の楽しそうな姿だけがよみがえってきます。
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