■節子への挽歌1620:コンプレックス
節子
今日はちょっと重い話です。
自死遺族の若い女性からメールが来ました。
ある集まりを彼女と一緒に企画しているのですが、私が書いた「自殺をなくすために」という言葉に関して、違和感があると書いてきました。
少し表現を変えていますが、彼女が書いてきたのは次のようなことです。
自殺をなくすことを目標にすると、遺族は自殺した人の人格や人生、存在を否定されているような気持ちになります。言葉とは、むずかしいものです。
表現した側の人にはそんな気持ちはなくても、自殺をする人を排除する社会をつくるような気分になる場合があります。
自死遺族の人たちの思いが、まだまだ理解できていないのに気づきました。
節子は病死でした。
しかし、その私でさえ、たとえば、「がんで死ぬ人は少なくなった」などという言葉に出会うと、節子や私が否定されているような気持ちになるのです。
その気持ちは、かなり歪んだ思いなのでしょうが、いまだもって克服できずにいます。
ですから、自死遺族の人が、こう考えることもわかります。
もっともっと複雑な思いのなかで、外部の言葉や眼差しには敏感になるでしょう、
それに気づけなかった自分に、少し落ち込みました。
人の死は、関わっている人に大きなコンプレックスを残します。
最近読んだ小冊子「自死遺族14人が語った物語」のなかに、親が自殺した子どもたちはみんなおかしくなってしまう、という言葉があったことを思い出しました。
そういえば、その言葉は、以前、彼女からも聞いていました。
家族の自死は、子どもたちの人生を変えてしまうのでしょう。
彼女とはもう2年ほど交流がありますが、まだまだ心は通じていないのかもしれません。
妻を病死させてしまった私にとっては、どこかで彼女と通ずるところがあると思っていましたが、やはり大きな溝があるのかもしれません。
しかし彼女は、さらにこう書いてきました。
何故かと考えるうち、私は自殺(自死)が病名ではないからだと思いました。
彼女は、自殺も「病気」だと気づいたのです。
私もそう思っています。
社会が引き起こしている「病気」あるいは「事故」です。
いつか溝が埋まる日が来るかもしれません。
しかし、私のコンプレックスが解ける日はくるでしょうか。
3月に大阪で、彼女の企画した集まりに参加することにしています。
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