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2012/02/13

■責任を負うべき人

「原爆投下と原発事故の奇妙な一致」の記事をフェイスブックに転載したら、ある人(中川さん)から次のようなコメントをもらいました。

日本はワイマール時代のドイツ、自分たちの歴史を総括する必要があると思いますが・・・。一般市民は米国のくれた民主主義に浮かれて、経営層は明治維新以来の産業資本の振興に浮かれ、そうしたバブルの負債だけが引き継がれていく。福島が提示しているのは、そういう問題なのだと思います。
そこで、ヴァイツゼッカーとニーメラーを思い出しました。
その2人はこのブログやホームページで何回か書いた記憶がありますが、最近は余り思い出さずにいましたので。

ヴァイツゼッカーは、ベルリン市長を経て、1984年に西ドイツの大統領に就任、翌年、ドイツの敗戦40周年に当たり、連邦議会で行った演説が話題になりました。
日本でも「荒れ野の40年」というタイトルで岩波ブックレットから出版されています。
多くの人に読んでほしい名演説です。
ヴァイツゼッカーは、そこで国家元首として、自国がかつて犯した罪責を具体的にあげて反省したのです。
日本では残念ながら、今もって、慰安婦問題にしろ南京事件にしろ、事実を隠そうとする、あるいは忘れようとする動きが強いです。
中川さんは、そのことを指摘しているのでしょう。

もちろんドイツでも、事態はそう違っていたわけではありません。
ヴァイツゼッカーは、こう述べています。

戦いが終わり、筆舌に尽くしがたいホロコースト(大虐殺)の全貌が明らかになったとき、一切何も知らなかった、気配も感じなかった、と言い張った人は余りにも多かったのであります。
しかし彼はこう言います。
目を閉じず、耳をふさがずにいた人々、調べる気のある人たちなら、ユダヤ人を強制的に移送する列車に気づかないはずはありません。人々の想像力は、ユダヤ人絶滅の方法と規模には思い及ばなかったかもしれません。しかし現実には、犯罪そのものに加えて、余りにも多くの人たちが実際に起こっていたことを知らないでおこうと努めていたのであります。当時まだ幼く、ことの計画・実施に加わっていなかった私の世代も例外ではありません。
映画「ニュールンベルグ裁判」でのヤニングは、まさにそれを認識していました。
組織の犯罪は、組織の成員全員に某なんらかの責任があるといえます。

同じように、原発事故に関しては、責任を負わない人などいないのです。
ですから責めるだけの人を、私は信頼できません。
だからなかなか反原発にデモに参加できずにいるわけです。
知ろうとすれば、1980年代に知りえたはずです。
少なくとも私は知っていたと認識でしていますが、生き方を少し変えただけで、原発の恩恵を受け続けていました。
だから東電を責める気にはなれません。
この現実はまずは従容として受け止めるのが私の生き方です。
もちろん事故後の東電の対応は責めることはできますが。

話がそれてしまいましたが、この演説はヴァイツゼッカーだけの言葉ではありません。
たとえば、彼に多分大きな影響を与えたであろう、マルチン・ニーメラーがいます。
ニーメラーはナチスに抵抗したために強制収容所に収容させられていましたが、戦後そこを訪れた時に受けたショックを書き残しています。
その話は、明日、書こうと思いますが、ドイツにはそうした想像力豊かな人がいたのです。
そしておそらくそうした人が生まれる素地があるのです。
責めるべきは、まず自らであるという文化があるのかもしれません。
そしてもしかしたら、それはキリスト教のような神をいだく一神教の文化に関係しているのかもしれません。
だとしたら日本にはどんな文化があるのか。
社会のダイナミズムが違うのかもしれません。

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