■節子への挽歌1623:身体の思想
節子
また仏教の話です。
人は一人で生まれて一人で死んでゆく、と言ったのは一遍上人です。
いまも多くの仏教者はそう言います。
その一方で、四国巡礼では「同行二人」とも言われます。
私にはこれがよくわかりません。
当然、死においても一人であるはずはないと私は以前から思っています。
歴史上、有名な高僧も、その書いているものには私には違和感のあることも少なくありません。
これでは仏教徒とは言えません。
困ったものです。
鎌田茂雄さんの「正法眼蔵随聞記講話」を読んだのですが、そこに一遍は死の恐れから脱却するために、「南無阿弥陀仏」を唱えたと書かれていました。
一遍の『消息法語』に次のような文章があるそうです。
「この体に生死無常の理をおもひしりて、南無阿弥陀仏と一度正直に帰命せし一念の後は、我も我にあらず。故に心も阿弥陀仏の御心、身の振舞も阿弥陀仏の御振舞、ことばもあみだ仏の御言なれば、生たる命も阿弥陀仏の御命なり。」死を知り、無常を思うことは、身体で知るのである。頭で知るのではない。
鎌田さんはそう言うのです。
そして、それを「身体の思想」と言います。
「頭の思想」ではなく、「身体の思想」。
なるほどと思いました。
身体の思想ということを自分なりに理解できるようになったのは、節子を見送って以来です。
それを知ってしまうと、頭の思想にはあんまり興味を感じなくなりました。
頭で考えると、人は一人で生まれ、一人で生き、一人で死んでいく。
しかし仏に帰依すれば、「同行二人」を身心で実感できるというわけです。
節子との別れを体験した、今の私には、とても納得できる話です。
見えないけれど、誰かがいつも一緒にいるのです。
帰依するとは素直になること。つまり、自分の考えを全部捨てることだと鎌田さんは言います。
すべてを捨てれば、自然と称名が口から出ると言うのです。
そして、一たび「南無阿弥陀仏」と唱えれば、自分は自分であって自分ではなし 自分の心は阿弥陀の心 自分の言動は阿弥陀の言動、この生かされた命も阿弥陀の命、つまり無量寿、永遠の生命になると言うのです。
何となくわかるような気がします
人は決して一人で生まれて一人で死んでゆくのではないのです。
愛する人はかならず、いつも一緒です。
だから自分も、愛する人のところにいないといけません。
それこそが悟りではない、覚りかもしれません。
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