■節子への挽歌1617:「何がなんだかわからない」
節子
もう数年前ですが、わが家のポストに「私はDV冤罪の被害者」というかなり厚い資料が投函されていた事がありました。
誰が投函したのかはわからず、ちょっと気持ちの悪い感じがしました。
それで、そのことをブログに書きました。
すっかり忘れていたのですが、先月、私のブログを読んだ当人からメールが来ました。
それで会うことにしました。
そして昨日、会いました。
彼は10年ほど前に奥さんと死別しました。
そこから人生が変わってしまったようです。
子供が小さかったこともあり、再婚することにし、結婚相談所に行き、そこで出会った人と再婚しました。
ところが、その相手の人が、彼に言わせればいささか異状だったようです。
彼の話だけから決め付けることはできませんが、いろいろな物証を見せてもらい、かなりの部分、彼の言い分に理があるように思いました。
しかし、その話をここで書こうとは思いません。
私が書きたいのは、伴侶と死別することが、いかに大きな打撃なのかと言うことです。
ともすれば、残された者の人生も壊れかねません。
それを超えるには、支えてくれる友人や家族が大切だと改めて思いました。
彼にも友人や両親がいましたが、小さな子供がいた故に、再婚に踏み切ったように思います。
そこでたぶん人生が変わりだしてしまったのです。
彼の場合は、良かれと思ったことが裏目に出たといってもいいかもしれません。
そしていつの間にか、彼はDV加害者にされてしまったのです。
冤罪の訴えを知ってほしいという思いが、数年前の小冊子配布になったわけです。
しかし逆にそのことが、たぶん彼をさらに孤立させ、周辺から避けられる存在になったのかもしれません。
2時間、彼と話しましたが、時に怒りが高じて、不穏な発言をすることもありましたが、本来は優しい人なのだろうと感じました。
ともかく彼の怒りを解きほぐさないといけません。
一歩間違えば、とんでもない事件を起こさないとも限りません。
伴侶の死は自らの死でもある、と前に書いた気がしますが、こういうケースも起こりうるのです。
死別した後の彼は、悲しみと不安で覆われていたと思いますが、それを乗り越えるための行動が、新たな怒りと不信を引き起こしてしまったわけです。
話している間にも、「何がなんだかわからない」と何回か話しました。
どこかで聞いた言葉だと思いました。
先日のグリーフケアのワークショップでお会いした、息子さんを亡くされた方も、確かそう言っていました。
愛する人がいなくなると、「何がなんだかわからない」状況に陥りがちです。
私も、きっとそうだったのだろうなと思いました。
いや、今もそうかもしれません。
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