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2012/02/04

■傭兵と義勇兵

イギリスの人権団体「シリア人権監視団」が4日明らかにしたところによれば、反政府デモへの弾圧が続くシリアの中部ホムスで、政府軍による砲撃で200人以上の市民が死亡したということです。
こうしたニュースを見ていていつも思うのですが、なぜ兵士は同じ国に住む市民に向けて発砲できるのだろうかと言うことです。
兵士もまた市民の一員ですから、発砲の先にはもしかしたら知人がいるかもしれません。
常識的に考えると、発砲はできないはずですが、200人以上とはいかにも多い。
もしかしたら、傭兵が軍隊を構成しているのでしょうか。
そう考えたくもなります。

1930年代のスペイン戦争には、多くの義勇兵が世界中から集まったといわれています。
日本人も一人参加しています。
しかし、おそらくシリアの内戦には、そういう義勇兵は参加していないでしょう。
銃に向かって立ち上がっているのは、シリアの若者たちでしょう。
私には祈るだけしかできませんが、そうした人たちがいることに希望を感じます。

傭兵と義勇兵とは、全く違う存在です。
いわば企業の雇用労働者とNPOのボランティアとの違いです。
雇用されていたらお金で動きますが、ボランティアは大義で動きます。
傭兵は国家の権力者を守りますが、義勇兵は国民の生活を守ります。
銃の口先が正反対なのです。
いや義勇兵が向ける銃の先は人ではなく権力です。

マルチチュード革命を提唱するネグリは、最近の世界各地の抗議運動に、新しい民主主義を期待しています。
私もそれに共感していますが、もしそうであれば、スペイン戦争のような動きが出てきてもいいはずです。
しかし、そうした義勇兵の動きは、年々、後退しています。
それを考えると、ネグリに「新しい民主主義」は幻想のようにも感じられます。

何が一体違うのか。
若者の目が向いているところが違っているのかもしれません。
フェイスブックの上場が話題になっています。
その時価はなんと7兆円を越すそうです。
若者の目は、シリアよりも、そこに向いているのかもしれません。
義勇兵など、今の若者には興味がないのかもしれません。

フェイスブックの創始者マーク・ザッカーバーグも、アップルのジョブズも、私は全く好きにはなれません。
私はほとんど誰とでも仲良くできる八方美人的な人間ですが、ザッカーバーグやジョブズは,好きにはなれません。
ああいう人たちが若者に人気があるような社会は、私には極めて住みづらい世界です。
彼らは、私には「新しい民主主義」の敵としか思えません。
しかし、その私の嫌いなザッカーバーグやジョブズが、新しい民主主義の地平を開くツールを創りだしているわけです。
それを考えると、彼らは間違いなく「新しい民主主義」の味方です。
彼らは、傭兵なのか義勇兵なのか。
なかなか悩ましい問題です。

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コメント

今ネグリ=ハートの『マルチチュード』を読んでいます。まだ上巻の途中までしか読んでいないのですが、彼らがまるで現在のシリアで起きていることを予見していたかのように思えて、鳥肌が立ちました。たしかにシリアの民衆反乱は、ヒエラルキーによる統制ではなく、平等な個人たちが広大なネットワークでつながったマルチチュードの様相を呈していると見えます。歴史上多くの主権主体は、前近代において情報伝達の効率を考えた場合にもっとも最適なモデルを適用したために、上部から枝分かれ式にイデオロギーを伝達するという形式に縛られ、伝統的な軍隊制に特徴的な構造、ヒエラルキー的構造を持つにいたり、それがある種のグローバルスタンダードとなりました。それに対して、平等な個人が広大なネットワークでつながりをもち、イデオロギーを共有するというマルチチュードを実現するには、Facebookなどのソーシャルメディアによって、情報(イデオロギー)伝達における物理的な制約から解放される必要があります。つまり上部からの枝分かれ式による伝達方法ではなく、個人が直接「多」とつながりあったネットワークを必要とするのです。

周りの若者たちが皆マーク・ザッカーバーグを崇拝するのに対しては、僕も疑問をもっています。彼の成功には何かウラがあるのではないかと疑うことは必要だと思われますし、実際に彼の出自や行動を見ると、「新進気鋭の天才が世界の常識を一変させるような大成功を成し遂げる」という単純なサクセスストーリー以外に、見えてくるものがあります。

たしかにシリアの紛争には義勇兵が立ち上がるべきだと思いました。今後のシリアのことを考えれば、イラクやアフガニスタンで起きていることを繰り返さないためにも、旧態依然のイデオロギーにまみれた国連軍ではなく、シリアの民衆・または新しい民主主義をつくろうという意志に共感した人々が反乱者たちを支援するべきなのかと。そのためには、現在シリアの国内にとどまっているマルチチュードを、世界に敷衍する必要があるのではないでしょうか。

駄文、失礼いたしました。

投稿: Chiaureli | 2012/04/19 12:52

Chiaureliさん
ありがとうございます。

『マルチチュード』は、なにやらそこから強いメッセージを感じて、私も鳥肌が立つ感じでした。しかし、その割には必ずしも十分に理解できていないのですが。
私は、リゾーミックという概念が大好きで、私のホームページは「リゾーミックスタイル」を目指しましたが、技術がついていけずにうまく発展させられずにいます。
フェイスブックはその点、実にすばらしいです。オートポエティックに、絡み合いながら自己増殖していくのを感じます。

ザッカーバーグに関しては、私もそんな気がしています。
実体が見えないだけに恐ろしい。

それにしても、いまなお、シリアでの無残な死が止まらないことがかなしいです。
しかし、もしかしたら、同じよう死が、日本国内でも起こっているのかもしれないと思うと、ますますやり切れません。
せめて自分として何ができるか、何をしてはいけないのか、を考えながら生きようと思っています。

投稿に感謝します。

投稿: 佐藤修 | 2012/04/19 16:08

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