■節子への挽歌1634:死の余波
節子
親を自殺で亡くした人から聞いた話ですが、自死遺族の支援活動をされている方が、「経験からですが、親を自殺で亡くした子どもは、たいていおかしくなってますよ」と言っていたそうです。
つい先日、死刑が確定した光母子殺害事件の被告も、母親が自殺したそうです。
人の「死」は、本人だけではなく、周辺の人にも大きな影響を与えます。
これも、生命がつながりあっていることを示しています。
誰がなんと言おうと、人は一人では生きておらず、一人では死んでいけないのです。
そのことがわかれば、人の生命は他者であろうと自らであろうと、おろそかにはできません。
この数年、自殺防止関係の活動をしていて、そのことがよくわかってきました。
おかしくなるのは、親を自殺で亡くした子どもだけではありません。
子どもを亡くした親も、伴侶を亡くした大人も、愛する人を亡くした若者も、です。
自らの生きる一部だった、そうした存在がいなくなると、自らの心身が変調してしまうのです。
それは、悲しさとか辛さとか、そうしたこととは別の話です。
心身に激震が走り、ともかく「まっすぐに」歩けなくなってしまうのです。
大人の場合は、それでもなぜそうなったのかが何となくわかりますが、子どもの場合は、おそらく自分でもわからずに道に迷いだしてしまう。
その結果、前に進むこと、あるいは成長することが止まってしまうこともあるでしょう。
そうしたことを考えると、光母子殺害事件の被告の悲しさが伝わってきます。
そうした状況を、みんながきちんと支えてやれば、被告は変われたかもしれません。
残念ながら、彼を弁護した弁護士には、そうした優しさや人間らしさはなかったように思います。
この事件を最初に知った時に、原告の本村さんの主張に圧倒されました。
家族を奪われた悲しみはいかばかりか、私には想像を絶します。
しかし彼は見事に道を外しませんでした。
節子はいつも、彼の発言に感心していました。
節子がもう一人、感心していたのが、松本サリン事件で妻を奪われた河野さんです。
河野さんも、まっすぐに前に進んでいました。
たとえ遠くの人の死でも、その余波は伝わってきます。
身近で愛する人の死は、強烈です。
そこでおかしくなっても、それこそおかしくはありません。
それを超えられたのは、おふたりの、愛の強さかもしれません。
しかし、もしかしたら、まっすぐに歩いているように見えた、本村さんも河野さんも、おかしくなっているのかもしれません。
だから逆にまっすぐにしか進めなかったのかもしれない。
一昨日の判決とその後の本村さんの発言には、思うことがたくさんありました。
死とは、かくも悩ましい事件なのです。
節子
最近は、そうしたことを考えさせる事件が多すぎて、気が滅入ります。
あなたがいたら、いろいろと話し合えるのですが、
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