« ■節子への挽歌1611:アンナ・カレーニナの原則 | トップページ | ■節子への挽歌1612:平板な時間 »

2012/02/02

■「想定外」という言葉の示唆すること

昨日、原発事故後の技術者の倫理に関して、NPO法人科学技術倫理フォーラム代表の杉本さんとかなり密度の高い議論をさせてもらいました。
杉本さんと私とは、原発に対する考え方は大きく違いますが、お互いに議論する基盤は共有しています。
また杉本さんは、私が尊敬する先輩でもあります。

このブログでも時々書いていますが、原発事故後の科学技術者の対応に関して、私はかなりの怒りと不信感を持っています。
原発の科学技術者という意味ではありません。
科学技術者すべてに対してです。
それで、技術者倫理に実践的に取り組んでいる信頼できる杉本さんに議論したいと申し込んだのです。
杉本さんの影響力は、私と違って大きいからでもあります。

私の問題提起のうち、ひとつだけ少し紹介します。
それは、「想定外」という言葉の無責任さになぜ科学技術者仲間たちは異議申し立てしないのかということです。
技術者は、「ある前提を想定した論理の世界」で仕事をしています。
それに対して科学は、「理解可能な世界」を広げようとする活動です。
科学は当然ながら、その世界を広げようとして、その周りにある「現在は理解不可能な世界」を想定しています。
現実には「理解不可能な世界」の周辺に、想像できない世界があることも多くの人は知っています。
私たちは、そうした4つの世界を生きているわけです。
技術者も当然、そうです。
つまり、技術者は「ある前提を想定した論理の世界」で仕事をしていますが、その世界でのみ生きているわけではありません。

「想定外」とは、その人の生き方を示す言葉です。
原発技術者が「今回の事故は想定外」と言うとき、その人は「前提に置かなかった」という意味で使っているように思います。
しかし普通の生活者は、「想定外」という言葉で「想像を超えた」という受け取りをするでしょう。
ここに科学技術者の、科学技術者らしからぬ、大きなごまかしを感じます。
実は問題は「起こりうるはずの条件を前提にせずに原発を設計し運転していた」ということなのですが、それが「想像を超えるような大きな災害だったので科学技術者の責任ではない」ということをほのめかす言葉に意図的に誤解させることになっているのです。
実際にそう思っている人は少なくないでしょう。
しかし、そこにこそ大きな問題があります。
もっと言えば、原発の安全を保証し、原発コストを安価にするために、その前提が決められたということです。
そこをしっかりと認めなければ、その後の発想も体系も変わりません。
ストレステストなどナンセンスです。

これはリスクの捉え方にもつながっています。
いま語られている安全議論は、「経済性を考慮して管理されたリスク」を対象とする「閉じられた安全性」でしかありません。
それに対して私たち生活者にとって意味があるのは、「実際に起こりえるリスク」を対象とした「開かれた安全性」です。

とまあ、こんな議論をかなり激烈にさせてもらいました。
いろいろと合意できたことはあるのですが、1回だけの議論では限界があります。
もう一度議論することにしました。
今度はもう少しメンバーも増やそうと思っています。

しかし、科学技術者は、科学技術のこれからのあり方を考えるためにも、こうした議論を起こすべきです。
そもそも「想定外」への挑戦が、科学技術の本質でした。
にもかかわらず、技術者が「想定外」と言い訳して、事実を総括しようとしない現状に、仲間の科学技術者が大きな声を上げないのは私には不思議です。
科学技術者がみんな腐っているかとしか思えません。
技術への不信感の広がりに大きな危惧を私は感じています。

|

« ■節子への挽歌1611:アンナ・カレーニナの原則 | トップページ | ■節子への挽歌1612:平板な時間 »

社会時評」カテゴリの記事

コメント

佐藤さんの(安全議論は、「経済性を考慮して管理されたリスク」を対象とする「閉じられた安全性」でしかありません。)に賛成ですが、今ひとつ追求がしたくて書きます。災害防止用土木構造物の安全性は、常に安全ということはありません。必ず期待値があります。たとえば50年に一回はおきるであろう洪水や波浪へ堤防高さを決める。水防ダムを造る。防波堤を作るなどです。別の言い方をすると、50年に一回しか起きないと想定している事象が、これを作った次の年に起きた場合、この計画が駄目だったのかというとそうでもないというのが計画者(この場合、一般に政府系組織ですが)の言い分であり、ある程度、税金を払う国民も納得しているのではないでしょうか? 今回の原発事故の津波(あるいは大地震)は、その期待値が公開されていたのかというと、どうもそれはなくて、経済的であると思われる範囲の期間(歴史事実)しか情報を確認していない(あるいは無視していた)とういことだと思います。また、経済性を重視する電力会社もいったん原発事故が起きたら(すでに、スリーマイル、チェルノブイリの事故があったのに)どの程度のダメージが会社にあるかということが露呈しております。企業経営者しての能力がなかったのだと思います。
現在、リスクマネージメントという手法がいろいろなジャンルで使われているようです。事業などのリスクを経済的な量に変換し、それをカバーするための費用がいくらかかるかとういことを見積り、それを踏まえての費用対効果をチェックするのだと思います。原発の場合、事故リスクは非常に大きいと思いますが、事故が起きなくても解体費用は莫大といわれています。さらに放射性物質を維持する期間のコストを踏まえて、電力会社は保険に入るべきだと思います。 保険を引き受ける会社がいたら、原発事業を展開されてらいかがでしょう?
福島原発事故のあと、原発保険を引き受ける保険会社は、保険会社の収益面を視点に原発の(経済的)リスクをチェックすると思いますので、親方日の丸原発推進を基本とした原子力保安院よりはるかに信頼おけると思います。
なんだか、まとまらなかったのすが、お送りいたします。

投稿: 寺田 公彦 | 2012/02/21 09:40

寺田さん
ありがとうございます。
同感です。
技術には絶対安全と言うものはなく、安全性の限度を明確にし、経済性との関係の中で、議論しておく事が技術者の責務だと思っています。
経営者もそうです。
草野さんと言うタレントに、原発の安全性を語らせてはいけないのです。
「想定外」と言い切るのではなく、「経済性との関係で前提にしていなかった」といえば、設計論の時限の話になり、そこで原発のコシト議論が始められます。
「想定外」と言ってしまうと、感情的な原発不安になってしまい、すべての原発への不信感が広がってしまいます。そこで議論が始められなくなるわけです。
そして、技術一般、あるいは技術者一般への不信感が高まるような気がします。
それはとても不幸なことだと思っています。

中途半端なコメントですみません。

投稿: 佐藤修 | 2012/02/21 10:00

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/30899/53885629

この記事へのトラックバック一覧です: ■「想定外」という言葉の示唆すること:

« ■節子への挽歌1611:アンナ・カレーニナの原則 | トップページ | ■節子への挽歌1612:平板な時間 »