■節子への挽歌1612:平板な時間
節子
今年は大雪の年です。
各地が雪で埋まっていますが、私は最近、いろんな人たちからの宿題で埋まりそうです。
挽歌を書く時間も最近はままなりません。
どこかで何かを間違えています。
机の上には、やらなければいけない事がリストアップされていますが、それが減る気配はなく、1つ終わると2つ増えているという感じさえあります。
困ったものです。
しかし挽歌もそうそうためるわけにはいきません。
節子がいなくなってからの生活は、考えてみると実に「平板」です。
変化がないのです。
メリハリがないといってもいいでしょう。
忙しい時にはすべての時間が忙しく、暇な時にはすべての時間が暇なのです。
忙中閑有り、という気分にはなれません。
言い換えれば、生への執着や変化への欲求が極端に低下しているのかもしれません。
あるいは、感情の密度や質が劣化しているのかもしれません。
ともかく「時間が輝いたり曇ったりしない」のです。
こう書きながら、我ながらどうもしっくり来ないなと思いますが、時間が、あるいは生活が平板になってしまったという思いはずっと感じています。
明らかに節子がいなくなって以来です。
平板になったからといって喜びや悲しみがなくなったわけではありません。
うれしいことも悲しいこともある。
しかし、それを体験することが、逆にむなしさとさびしさを引き起こします。
そうした思いを分かち合う伴侶がいないからです。
不思議なのですか、娘とは、そうした思いは分かち合えません。
なぜでしょうか。
そこに、夫婦の意味があるのかもしれません。
実は、最近の忙しさは、そうした平板さを変えたいという、私の無意識な思いが引き起こしているのかもしれません。
実は誰かから頼まれるわけでもなく、もちろん対価を得る仕事としてでもなく、自らが創りだしている宿題がほとんどなのです。
節子がいたら、節子との時間を増やすために、そんな宿題を創りだす気にもならないのかもしれません。
しかし、もしかしたら、と思います。
節子がいた時も、今と同じように、やらなくてもいい仕事を引き受けては、節子に笑われていたような気もします。
でも、その頃は、私の生き方を笑いながら理解してくれる節子がいました。
同じことをやっていても、時間も生活も平板ではなかった。
それだけは間違いない事実です。
人は何のために生きるかではなく、誰のために生きるか。昔そんなことを書いたことを思い出しました。
さて、今日ももう一つ宿題を減らしましょうか。
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