■wilful blindness
オリンパスの損失隠し事件で逮捕された菊川前会長や岸本元会長は損失隠しへの関与を否定しています。
知らなかったと言っているそうです。
それは事実かもしれませんが、正確には「知ろうとしなかった」、あるいは「知りたくなかった」というのがいいかもしれません。
しばらく前に、中国で自動車に引かれた血だらけの女児が、そのそばを何人もの人が通ったのに誰も介抱せずに死んでしまったという事件がありました。
あそこまで極端ではありませんが、通ずるところがあります。
こういう事件を見ると、私たちは、なんとひどい話なのかと思います。
とりわけ後者の事例であれば、自分なら無視はできないと思うでしょう。
しかし、心理学者によるさまざまな実験や調査によれば、それはかなり不確かなことのようです。
私もそれなりの自信はあるつもりでしたが、「見て見ぬふりをする社会」という本を読んでいて、自信をなくしたばかりか、すでにさまざまな「見て見ぬふり」をしていることに思い当たりました。
イギリスでは、そうした「見て見ぬふり」は、wilful blindness といわれて、犯罪構成要素になっているそうです。
つまりwilful blindness は法的に裁かれるのです。
同書にはwilful blindness のさまざまな事例が紹介されています。
それを読んで、全く自分が、そうしたことと無縁であるという人は少ないでしょう。
法的にはwilful blindness は有罪になったとしても、実際の日常社会ではwilful blindness のほうが心地よいことは少なくありません。
とりわけ企業や行政の組織に属していれば、あるいは地域社会でうまく暮らしていこうとすれば、事を荒立てるよりもwilful blindness のほうが安全です。
夏目漱石も「智に働けば角が立つ」と書いています。
その上、人間の脳の容量は限度がありますので、複雑な社会で生きていくためには思考を縮減しなければいけません。
見るところはしっかり見て、それ以外はwilful blindnessを決め込むのがいいのかもしれません。
それは「生きる知恵」でもあります。
子どもたちが学校で学ぶのは、そうしたことだと言う心理学者もいるようです。
「裸の王様」の物語が示すように、大人になるということは、wilful blindnessを身につけるということなのでしょう。
そうしなければ、うまく生きていけないのが、社会です。
しかしながら、昨今のさまざまな事件に触れるにつけ、どうも気分がすっきりしません。
本当はみんな知っているのに、普段は気づかない振りをしていて、あることが顕在化して、だれかが叩かれだすと、寄ってたかって非難しだす風潮も気に入りません。
みんな自分を棚に上げているのです。
管理できるのは自分だけだ、とよく言われます。
同じように、批判できるのは自分だけではないかと、最近思うようになって来ました。
まあ、その割には、このブログではけっこう他者を批判していますが、少し考え直さなければいけません。
そういう視点で、オリンパス事件を見るとさまざまな気づきがあります。
どんな事件も、自分と無縁のものはないのです。
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