■節子への挽歌1646:compassion
10年ほど前から「大きな福祉」を理念にして、だれもが気持ちよく暮らせる社会に向けて「自分の一歩」を踏み出している人たちのゆるやかな輪を育てる活動に取り組んでいます。
と言っても、これまた私自身の一歩という程度のささやかな活動です。
節子も一緒に取り組んでくれるはずでしたが、始めてしばらくして、節子が発病してしまったので、最初の展望とは違ったものになってしまいましたが、いまも「自分の一歩」として続けています。
それが「コムケア活動」です。
その活動を設計した時には、メイヤロフの「ケアの本質」に共感し、ケアを「関係性」として捉え、重荷を背負い合う関係を育てようと呼びかけました。
あるNPOに取り組む人からは、とても魅力的な言葉だが、重荷を背負い合うというと腰が引けると言われました。
私は、無理のない範囲で重荷を背負い合うことは生きることを楽にするだろうと思っていましたが、受け止め方はさまざまでした。
いま考えれば、「関係性」という発想が多くの人には弱いのだろうと思います。
昨年の3.11の体験は、そうした状況を変えたのかもしれませんが、まだ確信は持てません。
言葉としての「関係性」は広がってきましたが、実体としての「関係性」は必ずしも育っていないような気がします。
Compassionという言葉があります。
最近、出会った言葉です。
「神話の力」のなかで、キャンベルは「やさしさ」を考える鍵はcompassionだと言っているのです。
passionは「受難」であり、com は「共に」という意味ですから、「共に難に向かう」と言うことでしょう。
つまりは「重荷を背負い合う」ということです。
私が節子と会って、「結婚でもしない?」と誘ったのは、いかにも不謹慎のように響きますが、節子はその言葉の奥に、たぶん「重荷を背負い合う」関係性を感じていたと思います。
だからこそ、その不謹慎な誘いに乗ったわけです。
一緒に暮らしだしてから、どれほどの「受難」があったでしょうか。
たくさんあったようでもあり、なかったようでもあります。
重荷は、一人ではただただ辛いばかりですが、背負い合うと辛さと共に、希望や喜びが生まれるのです。
最近、被災地で生活再建に取り組んでいる人たちのドキュメントをよく見ます。
私など体験した事のないような過酷な状況からの再出発。
しかしそこに登場する人たちの表情には、時に喜びさえ感じます。
解決すべき重荷があり、背負い合う仲間がいる。
不謹慎ですが、時にうらやましくなります。
私は今、果たして重荷を背負っているのか。
その重荷を誰と背負い合えばいいのか。
それが最近わからなくなってきました。
片割れだった節子がいなくなると、思考が本当に混乱します。
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