■節子への挽歌1663:愛は此岸と彼岸をつなぐもの
アウグスティヌスの愛を語りながら、アーレントは「愛は此岸と彼岸をつなぐものだ」と書いています。
前の挽歌で、「愛すること」と「愛されること」について書きましたが、アーレントは「愛する者」は「愛されるもの」に帰属しているといいます。
これは、私にはとても納得できる表現です。
しかし、アウグスティヌスは、「愛する者」は「愛されるもの」を欲求し、所有しようとすると考えているようにも感じられます。
私にはとても違和感がありますが、多くの人はそう思っているかもしれません。
だから「欲望としての愛」という表現に、違和感を持たないのかもしれません。
こう考えていくと、アウグスティヌスやアーレントの「愛」の議論は一面的でしかないことに気づきます。
地上の愛と神への愛の違いは、実は帰属関係の方向性でしかないのです。
愛するものに帰属すると考えるか、愛されるものに帰属すると考えるか。
言い換えれば、自分に帰属するか、自分が帰属されるか、です。
もっとわかりやすく言えば、自分を捨てられるか捨てられないかです。
アウグスティヌスの言う「神への愛」は、自分を捨てる愛です。
アーレントは「神への愛は「永遠」への帰属性を与える」と言います。
「人間は、自らは永遠ではないが、永遠そのものである神を愛し、また自らの内にあって、決して奪い去られることなき存在として神を愛するのである」と言うのです。
つまり、それによって、人は神の一部になるわけです。
さらにこう書いています。
「人間は神を見いだすことによって、自らに欠けているもの、まさに自らがそうでないもの、つまり、永遠なるものを見いだすのである」
「神」という言葉が気にいりませんが、私が最近感じていることと見事に重なっています。
アーレントの別の表現のほうが、私にはもっとぴったりします。
「永遠を望むこと、それは愛するということである」
アウグスティヌスも、「永遠と絶対的未来を追求する正しい愛を、「カリタス」と呼びました。
アウグスティヌスにおいて神とは、「恐れに転化しない安定した未来」あるいは「永遠の平安」と言ってもいいでしょう。
アーレントはこうも書いています。
「個々の人間は誰しも、たしかに孤立した状態で生きるが、「愛」によってたえずこうした孤立の状態を克服しようとする。その場合、「欲望」は人間をこの世界の住民となすのであり、また「愛」は人間を絶対的未来に生きさせ、そうすることによってかの世界(彼岸世界)の住民となすのである。」
愛は此岸と彼岸をつなぐものなのです。
さらに、アーレントは書いています。
「人間とは、その人が追い求めるものにはかならない。」
神を媒介にせずとも、彼岸に通ずる道はあるのです。
どこまでがアウグスティヌスで、どこからがアーレントの言なのか、少し混乱しているかもしれませんが、違和感のあるキリスト教の「愛」の概念に、少しだけなじみが出てきた気がします。
もっともこういう議論は、節子の好むところではありません。
節子なら言うでしょう。
愛は語るものではなく、感ずるものだと。
節子は私に対して、「愛している」と自発的に発言したことはありませんでした。
そういうことに関しては、節子は頑固だったのです。
今日は挽歌を4つも書きましたが、まだまだ追いつけません。
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