■節子への挽歌1650:ジェミノイド
少し「心」のことを書きます。
大阪大学の石黒教授が開発したアンドロイドがテレビに時々登場します。
その一つ、ジェミノイドFは私には表情やあたたかさは感ぜず、いわゆる「不気味の谷」を思い出させますが、それはそれとして、ジェミノイドFの画像を見るたびに思い出すのが、映画「ソラリス」(リメイク版)です。
挽歌でも何度か書きましたが、主人公の脳を読み取った「ソラリスの海」が自殺した「妻」を主人公の前に創出してくるのです。
主人公は、その「妻」を妻とは思えずに、宇宙に放出してしまう場面は、私には衝撃的であると共に、自分ならどうするだろうと、映画を観るたびに思います。
たぶん私はその誘惑に抗うことはできないでしょう。
ロボット、あるいはアンドロイドに心があるのかという問いに対する石黒さんの話はとても興味深いです。
「自分」というイメージを、自分の脳がつくり出しているという意味では、自分のなかに「自分」というものや「自分らしさ」があると言っても間違いではない。
しかし、自分をつくりだす脳に刺激を与えているのは誰かといったら、それは自分自身ではなく、全部外部からの刺激ではないか。
石黒さんは、そういうのです。
そして、自分のなかに「自分」というものや「自分らしさ」、あるいは「心」というようなものがあるという考えは大間違いだと断言するのです。
確かに、私たちは気安く「心」という言葉を使いますが、心って何かはわかりません。
私に関していえば、つかまえ所がなく、状況によって「心らしきもの」はコロコロ変わるのです。
悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいという話も、前に書きましたが、「自分らしさ」も「心」も、状況によって変わってしまうのかもしれません。
「笑いのヨガ」というのがありますが、あれも楽しいから笑うのではなく、笑うと楽しくなるから笑うわけです。
心とはほんとうにわかりません。
自分の心さえわからない。
石黒さんがいうように、私たちは外部の刺激を受けて、自分を現出させ、感情や思考を生み出しているとしたら、節子がいた時の私といなくなってからの私は同じ存在なのでしょうか。
私の心や自分を形成していた上で重要な刺激は節子だったのですから。それが不在になった今の私は大きく変化しているはずです。
しかし、その変化を実感できないのはなぜでしょうか。
今日は、溜まっている疲労を解消しようと、「ソラリス」をまた観てしまったのがまずかったです。
ところで、ジェミノイドの節子がいたら一緒に暮らしたいと思いますかね。
私が旅立つ時に、ジェミノイドの私を残していったら、永遠にジェミノイドの私たちは生きつづけるのでしょうか。
それも実に興味ある話ですね。
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