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2012/03/27

■節子への挽歌1661:アモールとカリタス

今日はアウグスティヌスが述べている2つの「愛」の話です。
アウグスティヌスは古代ギリシアの神学者で、近代ヨーロッパの思想的潮流にも大きな影響を与えた人です。

アウグスティヌスは、「愛とは欲求のごときものである」と定義しています。
「至福」を求める人間にとって、「欲求」にはあらかじめそれが追求する「善きもの」が前提とされています。
そこで、アウグスティヌスは、「愛」とは、人間が自らの「善きもの」を確保する可能性にほかならない、と言うのです。
しかし、この「愛」は「恐れ」に転化すると、アウグスティヌスは言います。
なぜなら、得たものはいつか失われるからです。

「善きもの」の特徴は、それがわれわれに所有されていないという点にある。
われわれがそれを所有するならば、その時に「欲求」はやむ。
そして、獲得したものを失う危険がある場合には、「所有への欲求」は、「失うことへの恐れ」へと転化してしまう。

愛、あるいは欲求を成就してしまえば、途端に「失うことへの恐れ」が生まれ、そこで「愛の至福」は終焉するわけです。
アーレントも、その終焉を体験したのでしょうか。
そうかもしれませんし、そうではないかもしれません。

アーレントはともかく、アウグスティヌスは、そうした終焉する「地上の愛」は現世に固執する誤った「愛」(アモール)としての「欲望」だと切り捨てます。
そして、終わることのない至福を得るには、神と永遠を追求する正しい「愛」としての「愛」(カリタス)に目覚めなければならないというのです。
こうした「神への愛」こそが「至福」をもたらすというキリスト教的発想には違和感がありますし、節子との別れを体験する前の私だったら、興味さえもたないでしょう。
しかし、いまは違います。
奇妙に心に響くのです。

「愛」、つまり「至福」が「恐れ」に転化することは、まさに私が体験したことです。
しかし、同時に、終わることのない「至福」もまた、節子との別れから学んだことです。
アーレントは、「地上の愛」の中に「神への愛」を見つけているようにも思いますが、私もまた、失われることのない「地上の愛」を確信しています。
人を愛さずして神を愛せるか。
「世界への愛」(アモール)と「神への愛」(カリタス)の選択を迫るキリスト教は、やはり私には馴染めません。

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