■節子への挽歌1655:思いは言葉によって深くなっていく
最近、自死遺族の人や愛する人を亡くした人と話をする機会が増えています。
以前はなかなかお話しできなかったのですが、最近は素直に話せるようになってきました。
話をしながら、時に涙を浮かべる人がいます。
そうなると必ず私も涙が出ます。
お互いに話し出す時にはなんともないのですが、思いは言葉によって深くなっていくのです。
節子
別れを語ることは別れを思い出すことです。
そして、別れを聴くこともまた、別れを思い出すことです。
話の内容はさまざまですが、聴いているうちに、相手の話が私の内部では奇妙に節子の話にすり替わってしまうのです。
事情は違っても、別れの旋律は同じなのかもしれません。
むしろ事情が似通っていると、素直に聴けなくなることもありますから、別れそのものに心身が反応するのかもしれません。
それがどんな別れであろうとも、です。
別れを体験した人と話していると、ついつい自分の話もしたくなることがあります。
いまもなお私のどこかには、節子との別れを話したいという衝動が残っているようです。
いや別れではなく、節子のことを話したいだけかもしれません。
時間と共に、節子のことを話す機会は少なくなっているからです。
悲しみは時が癒すとよくいいますが、癒されるのは悲しみの当事者ではなく、その人と付き合う人たちなのかもしれません。
言い換えれば、ただ単に忘れることなのかもしれません。
しかし、悲しみの当事者には忘れるなどということは起こりません。
周りの人が話題にしなくなることによって、当事者も思い出すこと機会が少なくなる事は否定できません。
言葉によって、思いを新たにしたり、深めたりすることがなくなってくる。
しかし、それで当事者の悲しみが癒されるわけではありません。
意識の底に、どんどんと沈んでいっても、ある時に突然にマグマのように噴出してきます。
悲しみの当事者としては、癒されることへの抵抗は強くあります。
つまり癒されたくなどないのです。
悲しみは悲しみとして大事にしていきたい。
そう思います。
しかし悲しみで心身が動かなくなることは、最近はなくなりました。
それを喜ぶべきかどうか。
そもそも節子は、それを喜んでいるでしょうか。
喜んでいるはずがない、と私は思っています。
別れの悲しみや辛さは、大きな財産なのかもしれません。
その大事な財産を失わないように、やはり私は、ずっと悲しみを言葉にしていきたいと思います。
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コメント
以前、コメントさせていただいた者です。
一昨年の6月に、最愛の妻を癌で亡くしました。まだ42歳でした。子供はいません。
最愛の人を喪うという悲しみを経験した者にとって、癒されることには抵抗があるというのはよく分かります。
僕も、癒されたいとも思わないし、元気になりたいとも思いません。
妻を喪って、僕が負った心の傷はとても大きなものです。
その傷を抱えて生きていくこと、癒されることもなく、元気を出すこともなく、ただ亡き妻を想いながら生きていくこと。
それが妻への愛情の証だと思っています。
佐藤様は飯田史彦さんとお知り合いだと伺いました。
飯田史彦さんの「死後生仮説」、佐藤さんはどう考えていらっしゃるのか、お聞きできれば幸いです。
投稿: ぷーちゃん | 2012/03/18 19:02
ぶーちゃん
ありがとうございます。
私も同じ思いです。
ところで飯田史彦さんの「死後生仮説」の件。
妻を見送ってからは、飯田さんとはお会いしていません。
「死後生仮説」は、私には「仮説」ではありません。
そう確信しています。
理由は、それ以外に考えられないからです。
私のとっては「仮説」という呼び方をする人は、たぶん誠実に考えていないのだろうなと思うほどです。
機会があったら是非湯島にも遊びに来てください。
42歳は、私の娘と同じ世代です。
投稿: 佐藤修 | 2012/03/18 19:58
佐藤様
pattiです。
私も彼のいない人生を続けることに意味を感じることはできません。
私の唯一最大の望みは彼と同じ土に還ることだけ。そして、彼の魂と再開することだけ。
最後の目標に向かってエンディングノート等準備することが、現実的に意味があるとは言えます。
友人に話したとき、「そういう準備する人の方が絶対長生きすると思う」と言われました。私はその時それこそ「いらっと」してしまいました。
「私は長生きなんてしたくない、結果は長く生きてしまうかもしれないけれど、それはあくまでも結果であって人には言われたくない」と
親友なのに反発してしまいました。心の中で私は焦がれ死にしたいくらいなんだからと叫んでいました。
口に出してしまったことは後悔し謝りましたが、本音は変わりません。
物もずいぶん整理しました。そう、執着はほとんどなくなりました。二人だからこそ意味のあった物たち・・・。その物たちがとてもさびしそうに見えます。
悲しみと感謝と後悔の思いを私はひたすら書き綴ります。私も、綴った言葉を財産と思っていいのかもしれないと思えました。ありがとうございます。
職場では別人、笑って元気に対応しています。周りは立ち直ってきたと思い込んでいるでしょう。行き帰りに涙しているなんて想像もつかないでしょう。
BSアーカイブスの仲代達矢の「赤秋」を見ました。佐藤さんはご覧になりましたか?見ながらまた思いがあふれました。
投稿: patti | 2012/03/20 09:10
patti さん
ただただ涙が出ます。
「赤秋」は見ていません。
頭に入れておきます。
投稿: 佐藤修 | 2012/03/20 09:31