■節子への挽歌1662:ランダム・ハーツ
「愛」についてのシリーズをもう一つ。
アウグスティヌスの愛の話を書いているうちに、思い出した映画があります。
「ランダム・ハーツ」、シドニー・ポラックの作品です。
古い映画ですが、私はつい最近テレビで観ました。
映画としてはあんまり面白くないのですが、奇妙に心に引っかかっている映画です。
愛し信じていた妻を突然飛行機事故で亡くした夫が、妻が不倫の相手と一緒に飛行機に乗っていたことを知り、その相手の男性の妻と一緒に真相を追っていくという話です。
伴侶に裏切られ、しかも死なれてしまった男女が、揺れる心の中でお互いに愛を感じていくという、いささかやりきれない大人のラブ・ストーリーです。
主演はハリソン・フォードですが、相手役のクリスティン・スコット・トーマスが実に魅力的です。
妻の不倫が発覚したにもかかわらず、ハリソン・フォード演ずるダッチは妻への愛から抜けられません。
同じく、スコット・トーマス演ずるケイもまた、夫への愛を捨てられません。
だから、ランダム・ハーツなのです。
愛する人が「不倫」をしていたら、愛は憎しみに変わる、とアウグスティヌスは書いています。
だから、愛は恐れに変わるというのです。
しかしそれは本当でしょうか。
私は、そうは思いません。
アウグスティヌスは、たぶん人を愛したことがないのでしょう。
裏切られたら憎しみに変わるような愛は、愛ではありません。
それこそまさに,アウグスティヌスがいう「欲望としての愛」でしかありません。
そこでは、「愛すること」と「愛されること」とが混同されています。
愛は、決して裏切られることはありません。
何かを期待などしないからです。
私は、節子を愛していましたが、節子が私を愛していたかどうかは確信がもてません。
半分冗談で、もう少し愛してもいいのではないかと私は何回か節子に言ったことはありますが、節子はそれにうなずいたことは一度もありませんでした。
今となっては確認のしようはありませんが、愛とは確認すべきものでもないでしょう。
私には「地上の愛」も「神の愛」もなく、愛はただ一つ、愛なのです。
誰かを本気で愛すれば、だれをも愛せるようになれます。
愛とは、そういうものだと、私は思っています。
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