■節子への挽歌1642:哀しみの表現の場
節子
私と同じように、書くことによってなんとかバランスを保っている人に会いました。
Kさんといいます。
1年前に、同棲していた恋人を病気で亡くされたそうです。
病気がわかってから3か月。
突然の別れでした。
私たちのように、ずっと一緒に病気に向き合っていても、別れは突然に来ました。
そして、正直、別れがうまく理解できずに、思考が乱れ、わけがわからなくなりました。
いまでも私はあまり理解できていません。
節子は今もどこかにいるような気もしますし、節子のいない世界など嘘だろうと思うこともあります。
Kさんの場合は、3か月です。
理解しようにもたぶん理解できないでしょう。
Kさんも、ある時、突き動かされるようにして、思いをブログに書きだしたそうです。
私と同じです。
私と違うのは、書くだけでは鎮まらず、自分と同じような人はどうしているのかと動き出したのです。
そして私のところにやってきてくれました。
私も節子のことを素直に話せました。
Kさんも話してくれました。
こうやって話せる場があるだけでも救いになる、
だとしたら、同じ思いをしている人たちが話したくなったら話す場があればいい、
話でなくてもいい、音楽でもアートでも、ともかく表現できる場があればいい。
Kさんはそう考えて、動き出したのです。
Kさんはまだ30代の男性です。
私になにができるだろうか。
考えてみようと思います。
Kさんの愛の深さには、負けそうな気がしました。
私には初めての思いです。
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