■節子への挽歌1653:悲しむ人に声をかけられなくなっています
節子
韓国にいる佐々木さんが娘のように可愛がっていた愛犬のパルが息を引き取りました。
15歳と15日だったそうです。
佐々木夫妻の悲しみを思うと心が痛みます。
その知らせを受けた時、私はなんと声をかけていいかわかりませんでした。
深い悲しみを知ってしまうと、悲しむ人に声をかけることができなくなります。
節子を見送った後、私に出来なくなったことの一つです。
「思い」と「言葉」は、ほとんどの場合、重なりません。
思いが言葉になるのではなく、どちらかというと、言葉が思いになってしまうのです。
そして、最初の思いがなぜか居場所をなくしてしまう、そんな体験をこれまで何度かしました。
思いには言葉など要りません。
それに、悲しみなど共有できるはずはないのです。
いささか難しいことを言えば、自らの悲しみでさえ、言葉で考えている自分とただ思い感じている自分とでは、その悲しみは同じではありません。
ましてや、こうした挽歌を書いている私は、言葉で考えている以上に、思いや感じよりも遠くにいるのかもしれません。
そういうことを体験しているうちに、「弔意」や「追悼の念」を口にできなくなってきているのです。
話をパルに戻しましょう。
節子も一度だけ、パルに会っています。
佐々木夫妻が、パルともう一人のミホを連れて、わが家まで節子の見舞いに来てくれたことがあるからです。
節子はその頃はもうかなり悪くなっていたので、あまりパルのことを覚えていないかもしれませんが。
佐々木さん夫妻は親身になって心配してくれ、節子はとても感謝していました。
今から思うと、本当にたくさんの人が節子や私たちを気遣ってくれました。
にもかかわらず、節子を守ってやれなかったことはいくら悔いても悔いたりません。
しかし、それも定めだったと思うしかありません。
そのパルよりも年上の、わが家のチビ太は最近なぜか元気です。
今日も庭につながるドアを開けておいたら、段差を超えて庭に出ていました。
しかし、この頃は寝ている時間が多くなりました。
寝ているチビ太でも、いなくなると寂しくなるのでしょうね。
生命のつながりは、不思議なものです。
明後日、佐々木さんにお会いします。
なんと声をかけたらいいか、節子に教えてほしいです。
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